二十七話 積怨深怒
檻の中に、閉込められる野獣。
「……出しやがれ」
静かにささやく董吾。そこにはただ、自分に対する憐憫を求める声ばかり。あの凶暴さはもう遠くに離去ってしまっている。
「だめだ。お前は全屍人にとっての脅威だからな」
董吾は笑った。力のない笑いだ。
「俺はこんな牢獄に閉じこめられちまった。もうお前たちに何もできないんだぞ」
久造は依然として董吾をにらんでいる。実際に闘ったことはないが、見聞でその凶暴さは十分に知っている。帝都を久しく出たことのない久造にとっては、帝国のルールが通じない外の世界は一層恐怖の対象だった。
「ああ、できることならお前を死ぬまでここに押込めてやる。だが、そうするのも忍びない」
「お前たちにも情があるのか? 何と醜い情だ」
「ジンケン……とでも言ったか。それに照らしても、お前を無駄に飢死させるわけにはいかん」
これを設計した人物も
「お前に一つだけチャンスを与えてやる」
「植村千一を消せ」
「千一、だと?」 董吾はいぶかった。帝国の名だたる将軍ではないか。しかも、少し前に鉄屑街を制圧したあの男である。
そんな奴を消せと言うのか。
「奴は今、花園町の地下基地に潜入している。今まであの場所に行って帰ってこれた人間は存在しないが……やつのことだ、どうなるかわからん」
「そして、杉野軍兵。奴が千一と通じているという噂も聴いておるのでな」
「軍兵……」
董吾はこらえきれず、笑出した。
「何がおかしい! 貴様は奴と対等に渡り合ったのだろう!」
「あいつは、ただのガキだ。昌虎の倅というだけのな」
「奴は、藤木峻一かもしれん。危険分子だ」
たいして面白くもない様子で聴く董吾。
「あれを消さないことには、帝国に真の安寧は訪れない……そうすれば、お前は晴れて自由の身だ。何をしてもいい……どこか人の住まない沙漠にでも出ていくがいいさ」
董吾は、久造の申出を軽蔑していた。それが何か利益になることだと見たからではない。自由の身になるために戦う、という目的に凄まじい恥辱を覚えたのだ。
好き放題に暴れることもできない。しかも、あの帝国がその間に、ありがたくも味方をしてくれるというのだ。
「いいだろう……だが条件がある」
「何だ」 早く言え、とすぐに叱りつけそうな形相で。
「千一を殺すのは俺一人だ。お前らの助けなどいらん!」
「わかった」
久造はそそくさと、檻の向こうの扉に消えていった。ただし董吾の方を何回も振向きながら。凄まじいくらいにその瞳に対して恐怖を向けていた。
ピラミッドの一室に、朱里は閉じこめられていた。
千一との別れの挨拶すら十分に果たし得ないままに、朱里は見栄えのしない灰色の天井をゆっくりとした眼でのぞくほかなかった。
理由は、言われなくても分かる。
なぜ千一だけが花園町に行き、自分一人は帝都に残されなければならないのか。
「なぜ私だけが帝都に置かれるの!? こんなの追放でもなんでもない……ただの死刑宣告じゃない!!」
「宰相の意向だ」
久造は董吾に対するときとは打って変わって、明るい視線を向ける。
「そう愁えるな。他でもない、あの董吾も加勢に来てくれるそうだぞ。嬉しいと思わないのか?」
朱里は全く嬉しいと思わなかった。董吾というこの世の害悪そのものみたいな人間に、なぜ千一が狙われなければならないのか。
「私は、千一がいなければ何もかもが不安なのよ。私は」
「君は屍人だ。この世に生きていたのはせいぜい六歳程度でしかない。四十年以上をそんな幼い体で過ごしてきた」
朱里は全く相手の話を聴こうとしなかった。
「屍人になると精神的に衰えてくる。もはや過去のことも忘れ、未来に対する興味すらもなくなっていく」
久造は静かに事実をのべる。
「お前は千一にすがっているに過ぎない。自分がもはやどういう経緯で屍人になったのか、なぜ帝国に仕えているのか、もはや記憶を失いかけている」
ほとんど消え入りそうな声で、面倒くさそうに事実を述べるばかり。朱里はこらえきれずに、久造の両肩を荒々しくつかむ。
「宰相は、花園町の地下に行かせて殺そうとしているんでしょ! 私には分かる」
甘い奴だ、と久造は思う。そもそも、
「宰相の命令には誰も逆らえない。宰相以外の誰も、この帝国の計画を知悉している人間なんていないんだ。もしお前がこの命令にそむけば、誰が得をするのか……それすらも」
千一が戦地に赴く前に言残したことを、静かに思い出す。
朱里はめそめそと泣いた。その姿があまりに惨めだったので、千一は声をかけた。
「俺が帰ってくるなんて期待してくれるな。俺が死んだらお前が死ぬわけじゃないんだからな」
寝床で、彼は静かに語りかける。
「藤木峻一が記憶を取り戻してくれれば俺には、何の未練もない」
「でも、あの子がとても私たちの言う軍兵とはとても思えないんだけど」
「だとしたら何だ! あいつがいずれ、この世界に大きな衝撃を加えるのは間違いない。だから俺は、お前にその」
千一は黙った。
「……俺は確かに、陛下の御前で宰相から命令を受けた。花園町の地下に潜入するように、だ。でもその時俺は少し不思議なものを感じた」
「どういうこと……!?」
「皇帝の顔は笑っていなかった。まるでその言葉を言うのが憂鬱なようにな」
千一は自分の表情を見せるのが恥ずかしそうに、うつむいている。
「何だろう……俺にはまるで何か言わされているかのような気がした。あの皇帝はもしかしたら偽物なのかもしれない。今さら疑った所でしようがないけどな」
朱里はあきれた声で吐捨てる。
「そうやって、あなたたちは全く、自分の権力を疑うことをしないのね。藤木峻一がまた現れても知らないんだから」
「奴はすでに死んだ! 何を期待している」
「それとも……何か知っているのか?」
久造の顔色が途端に変わる。
「俺はあいつを決して許さん。あいつが我々の前から消えた、今でもな……」
久造はそれまでとは打って変わって、朱里の肩を荒々しくもんだ。
「離して!」
「藤木峻一は確かに死んだ。全ての報告で確認したんだぞ! それがお前は、生きていると言った!」
久造は朱里の全身を強くゆさぶった。
朱里は抵抗した。本来なら彼らをのし倒すくらいなんでもないのだが、今となってはもう力が出ない。
切札を奪われては、屍人は何もできない。
「久造様!」
「お前にはしばらくこの『王城』の一室から出ることは許されん。勝手に帝都から脱出されないためにな」
「もし千一が生きて還ってくるようなことがあえば、お前の目の前で千一を殺してやる。慈悲があると思うな!」
朱里はもうは何もしなかった。それどころか、干からびた表情で笑っていた。
久造が出ると再び朱里はすすり泣いた。
こうなってしまったのか。
元から、千一が以前から帝国上層部から疎まれていたのは知っていた。
何かの音がした。急に耳鳴りみたいな音がどこかから絨緞の上を、丸い何かが転がった。
「え……?」
それは、銀色の光沢のある、
「闘え。闘わなければ……」
それは極めてくぐもった声で、人の声とすら言い難いものだった。
だが確かに、朱里はその
「誰もこの状況から生きて出ることは許されない。今この世界は、大きな危機に見舞われている。」
「誰? 一体どこから、話してるの……!?」
気味の悪さを感じて、不意に立上がる朱里。
「藤木峻一は、生きている」
一瞬、千一かと思った。その言葉を言うのは、彼以外に考えられなかったから。
しかし。無論千一がこんなものをこしらえてくれるわけはなかった。
「私は、彼を待っている。終わりが始まる、その時まで」
朱里は、何が何でもそれに対して質問を投げかけようとした。しかし、その文面が思いつかなかった。どう言えばいいか、迷う内に突如、球体は消失した。あまりに突拍子もない出来事で、朱里はただ口を虚しく開くことしかできなかった。
いつの間に、異様な金属音も収まっていた。あるのはただ、四方から攻め立てる静寂のみ。




