第二話 五里霧中
俺はこの前にも死んでいたことがあるというのか?
嘘だ。人間は死んだら、二度と生返らない。そんな馬鹿な話を、俺がするわけがない!
「嘘だろ……俺はそんなの信じない!」
俺は、こんな荒っぽい性格だったのか。その発見は絶望的な状況の中で起こった。そもそも俺は誰かに対してこれほど抵抗しようと思える人間なのか。だがそう考えられるのは、実際には自分が何もなしえないからなのだ。
二人の刑吏はますます力を強めて、腕を締上げる。
「生きている人間はどうせ死ぬ。だが、一度死んだらその後は不死身だ」
久造が後ろから肩を叩く。何の慰めにもならない。
最初こそふざけんな、とか、もうだめだ、というような言葉をぶつぶつとつぶやいていたが、久造たちが言葉による反抗には全くの無関心だと分かると、それすら発しなくなった。
その途端、久造は堂々と悪意を告白し始める。
「こいつは三十年間屍人保存棟に冷凍保存する。まあどうせ丙級だろうがな」
刑吏が気がかりそうに、
「丙級となると知性は戻らなくなりますが……」
「構わん。下手に賢くなって叛逆されるよりはましだ」
知性が……なくなる!? 嘘だろ、そんなの死ぬよりもひどい処遇じゃないか……!
軍兵たちは薄暗い通路を抜けて、階段を降った。
幾度となく名前のついた部屋を通り過ぎて、とうとう、『手術室』という名前を持つ一つの牢獄に到着。壁のボタンを何回も押すことでシャッターが鈍い音を挙げて開き、軍兵の目の前には一つの台。
いくつものケーブルが下から伸びて壁に繋がっている。壁は大小いくつものスクリーンを掲げ、表面にはよく分からない図式やグラフがびっしりと。
とてつもなく、危険そうな雰囲気。
久造はごく失望した声で語りかける。
「我々の帝国には様々な人間がいるよ。賢い人間もいれば強い人間も……その全てが死んだ人間だ」
『死んだ人間』という言葉に思いきり自慢の感情をかけているようだ。
「生きている人間はもはやただの前提に過ぎない。死んだ人間こそがこの世界を創造する。人間は生を超越するのだ!」
久造は勝ち誇る口調に変わり、それから哀れむように、
「しかし、君と来たら、帝国の城壁を何の意識なしに補修している情景しか想像できんのだよ」
軍兵は服を脱がされ、猿ぐつわを噛まされて台の上に載せられた。四隅から生えてきたベルトが四肢を縛った。
もはや記憶喪失者の視点は安定していなかった。体と同じく、その目も震えに震え、焦点が定まらない。
体の奥底から、何かが熱くみなぎっている。血でもなく、涙でもなくもっと別の、怖ろしい物だ。
その場に居合わせた他の人間は、みな冷徹な視線で、その醜悪な様を眺めている。
天井から一本の機械腕が飛込んで、軍兵の腕をわしづかみにした。
目の前で、火花がくすぶっている。
「……それでは、薬品を注入します」
少し離れた位置にいた男が、操作卓をいじりつつ。
「体に異常は?」
全身からなくなる感覚。
久造は特に何とも思わない様子で、質問を投げかける。
「問題なし」「血液の組成に異常は?」「問題なし」 あまりにも機械的なやりとりで、この男がずっとやり続けて来たことのようだった。もはや、歩くことや走ることと同じくらい、何でもない日課のようだった。それが、この世界では当然なのだとつぶやくばかりに。
「怖いか? 安心しろ、じきにその感情も知らなくなるぞ」
そして妙に耳に障る機械音がうなりを挙げ、機械腕が静かにその柱をまっすぐにした時。
――歴史を繰り返させなんてしない――
自分の声か、自分ではない誰の声なのかさえ、分からなかった。
少なくとも、決して自分に対して語りかけた言葉ではなかった。何の慰めにもならない。こんな、文脈の分からない決意なんて。
急に壁が悲鳴をあげて、大きく横にえぐれた。機械腕から火花が上がり、数人がその場から跳飛ぶ。
軍兵はまたもや叫んだ。それが誰かが助けに来てくれたという喜びだったのか、またもや異常な事態に巻きこまれるという絶望だったのか、自分でも分かりかねた。
薄汚れた空を背景に、灰色の縄目模様に満ちた胴体。何かの生物なのか、あるいは機械に過ぎないのか、一見では分からない。
迷惑がって叫び狂うエラー音。
姿勢を崩しながらも、久造は舌打をついて、腰から一丁の銃を取りだした。
「くそっ!」
一発、二発、光の爆発が銃口をまばゆく照らす。しかし、この不気味な灰色の巨人には傷一つつかない。
突然外れたベルトから何とかすべり落ち、猿ぐつわも無理やり外して床に伏せる軍兵。初めて怒った顔を見せて腕の関節を踏みつける久造。
「この若造は国家の物だ」
巨人は胴体に比べて腕と足が極端に短い、ずんぐりした体形をしていた。頭の方に広い風防があり、その向こうに誰かの顔が見えた気がした。
先ほど誰かが操作していた機械も、巨人は三本の爪を帯びる腕を叩きつけて破壊した。異様な警告音が奏でる不協和音。軍兵は状況が変わったことを悟った。
武器が役に立たないのを知ると、久造は舌打してどこかへと蓄電した。
それは願ってもない僥倖だった。彼は、もはや久造たちがどうなったかすら興味を抱かず、部屋の外に出て、廊下を走って、階段を上がった。
「賊軍の襲撃だ!!」 ホールでは怒号が鳴り響いていた。
胸から上にぶ厚い鎧を着こんだ武装兵が、バズーカやショットガンを両手や肩に抱えて走りだす。常人か!? などという罵声があがりはしたが、見逃してくれるらしい。
巨人は逃げ出した。背中から粉塵を巻き上げて、建物の屋根を打破り、耳をつんざく轟音を撒らしながら空へ昇っていった。
その姿を、次々と鋼の弾丸が追いかける。しかしわずかに一発が命中しただけで、巨人は空の向こうへと逃げ去っていった。
軍兵は、上半身裸のまま、この荒々しい光景を目撃していた。
「何なんだ……あれは」
自分は、本当に異世界に来てしまったというのか。
こんな世界が自分の居場所だというのか。そんなはずはない。どう考えても、否定したくなる。
自分はもっと普通の生活をしているはずだった。普通の家庭に住んでいるはずだった。普通の人生を送っていたはずだった。それがこれからも、ずっと続くはずだと……。だが、軍兵はそれが思いこみでしかないことに気づく。
いや、俺はそんな人生を送っていなかったかもしれない。俺はずっと悲惨という他ない人生を送っていたんじゃないのか? それこそ、こんな世界に比べても仕方がないくらいの……?
ひたすら、軍兵は逃げた。もう空は薄暗くなっていた。どこにも逃げ場がない。帰る場所がない。あたりには物さびしい煉瓦の壁ばかりで、時たま人影とすれ違うこともあるが、声をかける余裕などなかった。ここが彼の言う『帝国』なのか。自分の知っていたはずの世界だというのか。
突然何か硬い物にぶつかり、軍兵は数メートル走り去ったところで止まった。疑心暗鬼に駆られながら、後ろをじっと見る。
肩幅の広い、筋骨隆々とした一人の男がそこに。制服ではない。ずっと水ぼらしい、粗末な服だ。
だが、こちらには服すらない。完全に裸だ。疑われないわけが、ない。
「何だ、てめえ?」
どう考えても、男に許す気はない。ただ単に怒っている感じの顔ではなかった。
「あ……あの……」
軍兵は自分に恐怖があるからだと思ってはいなかった。あまりに精神的な疲労困憊の末に、言葉を出すだけの気力が失われているのだ。しかし不幸なことに、最初から目の前の人間は敵意をもってこちらを睨みつけている。
視界に突然浮かぶ、光の粒。一つや二つではない。それも、何百も。
「この俺様にたてつくとはいい度胸だ。そのお返しを食うがいい」
目の前の男は懐から小さな何かを取りだした。
その直後に、その何かは上から下に伸び上がり、直後、軍兵の胸には激痛。寒さでもなければ、暑さでもなかった。体の内部から異様な熱が生じ、それ以外の感覚が一瞬でなくなった。
腹を黒く貫く一本の直線。外へと液体が流れる。軍兵は倒れこんだ。目の前が白黒写真。それすらも暗闇の影が次々と覆って行く。
それから蹴りを入れられた。もう何も見えない、何も感じない。
だが、白黒写真はそれでは終わらなかった。まだ、続いているものがあった。軍兵はそれを感じていた。
それすら、やはり惨め極まりないものであって。