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第一話 天地玄黄

屍人倥偬遠黄泉

愚智雖亡必武宣

滅起獲麟帰閃鑠

消之唯為自舞天

――俺は、もう俺のままでいるべきじゃない――


 ここは……どこだ……?

 とても憂鬱な――いや、絶望的な気分になってたのは確かだ。だが、それよりも、ここはどこなんだ?

 空が黄ばんだような色をしている。灰色の壁が左右に広がっている。空気が、刺すように冷たい。どうたら、ずっと家の硬い壁でもたれていたみたいだ。


――俺は、この記憶を消さなければならない――


 ……幻聴?


 痛みを覚えながら、立ち上がり、四角形の窓をのぞく。

 どこまで続くか分からない道路、向こう側の殺風景な壁、壁の表面と、そこから張りだした看板、異様な文字列。

『帝国軍防衛本部』『新民40年記念式典』

 どれもが、首をしめつけるような厳しい字体をしている。

 こんな文章、見たことがない。いや、明らかに自分が知っている場所ではない。都会と言うにも、これほど人の気配が感じられない場所をそう呼べるだろうか。


 静かに近づいていく足音。

 向こう側に、威圧感のある数人。誰もが、灰色のいかめしい制服に身を包み、軍人のような風貌を漂わせている。

「お前はまず、常人じょうじんだ。それに、身分証を持っていない」

「身分証?」

 ここは、病院か? あるいは、何かの牢獄か?

「黙れ常人!」

 男たちの罵声。目を背けた所に貼ってある鏡で、彼は自分が柔弱な体であることに気づいた。背が低く、腕も細い。何よりも、葬儀のための白装束みたいな、不気味な服装。こんな趣味があるか? まして手首には黒い、あまりにも黒くて光を反射しない金属のバッジが張られている。はがそうとしても、取れない。

「驚いたな、『帝国』の領内にまだ逃げのびている常人がいるとは!」

 もう一人が顔を近づける。

「今の時代、常人は屍人製作工場の棚に保存されていなければならん。お前のような奴を野放にするわけにはいかんのだ!」

 男たちは大層あきれた感じの声を出している。『常人』とかいう人間は家畜とでも言わんばかりだ。


――安心しろよ、しばらく会えなくなるだけだから――


 先ほどから頭の中の音楽みたいに繰返す幻聴を聞こえないようにして、


「な……なんですか、『帝国』って?」

 全く、わけが分からない。自分自身の正体が分からないという恐怖。募っていく苛立ち。

 何なんだこいつは……と男たちがまたもや騒々しい会話。

「こいつは多分記憶喪失だぞ」 仲間が口を挟む。

「記憶喪失?」

「第一、あの制服なんて着ている時点でただもんじゃない。多分よそ者だな」

 誰もが疑ってかかっている。

「まさか海を渡ってきたってわけじゃあるまいし……、おい、名前を言え」

 名前? 名前すら、思い出せない。

 だがここで、はっきりと質問に答えなければ殺されそうな気がした。

 思い出せ。俺はまだ、ここで死ぬわけにはいかない。何も分からずに死ぬのなら……名前は確か……。

杉野すぎの軍兵ぐんぺい

 言えた。名前は言えた。逆に、名前しか思い出せないのだが。

「軍兵。いかつい名前だな。だが、体を名を表わさない。『賊軍』の人間じゃないのは確かだ」

 またもや新しい単語が出てきた。『賊軍』……彼らの敵なのだろうか。自分だけでなく、他者のことすら分からないという焦燥感の中では、言葉など覚えられるわけはなかった。


「びくびくするな!」 震えていると、理不尽に怒鳴られる。この時点で軍兵の顔からほとんど表情は消えていた。不快感を自分自身にもよおしながら、誰かに従うことしかできない。


「監察官どのに尋問願おう」


 何なんだ、この建物は。型に従い過ぎているというか、無機質で、人間の感情を無視したような雰囲気がぬぐえない。窓の向こうに、ピラミッドが見える。これもまた、紋切型みたいに灰色で、装飾も一切なく、存在する目的がさっぱり分からない。しかし気になるのは、自分の名前。

 杉野軍兵……なぜ、これしか思い出せないのだろう。間違いなく、自分はここの住人ではない。ここから逃げ出さねばならない。

 逃げ出さなければいけないのに、身体は扉の中に入る。さして飾りもなく、受付といくつかの書類の棚が置いてあるだけの簡素な部屋だった。そこにもやはり『帝国』の字が片隅に躍っていた。

『偉大なる帝国の建設のために』という標語が壁に。

 むしろここまでくるともはや軍兵は、一体世界がどうなっているのか知りたくなって来た。それが怖くて、気持ち悪いものだとしても、知らなければいけないような、そんな気が。

 だが、彼の体は何の自由も与えられずに、冷酷な光が照らす灰色の部屋をくぐりぬける。



 急に、四角形の狭い小部屋の中に入れられた。軍兵はただ、府抜けたように椅子に座りこむ他なかった。一体何がおかしいんだろう。

 自分が存在している。自分が一体何を知っていて、何を知らないか、ある程度見当はついているはず。それなのに。今いるこの場所には、自分の常識が一切通用しない。

 そこに、一人の男が入ってきて軍兵の目の前に座った。

「君は記憶喪失なのかい?」

 先ほどの粗暴な性格が顔に現れてい人間とは対照的に、優しげな感じのする若い男だ。

「そうみたい……ですね」


 先ほどの刑吏と同じく、灰色の制服を着ている。だが若干、肩に飾りが追加。

「私の名前は星野ほしの久造きゅうぞう。この帝国の一角の警備を任されている」

「はあ」

「君が記憶喪失であり、どうにも屍人ではないらしいと聞きつけてやってきたよ。私はこういう異変にはじっとしていられないんでね。この事情に関してはごく細かく聞かないと気が済まない」

 顔や肩から、知的な風貌を漂わせている。

「君は、何地区の出身だ? 何か身の証明になるものは」

 軍兵は、腹や肩を探った。しかし、特に特徴のない、粗末なズボンとシャツをまとっている他は何も持ってはいない。

「……何も」

「では、いつ『旧世界秩序』が崩壊したか言ってみたまえ」


 先ほどから単語ばかり出ることに、不快感を禁じ得ない軍兵。

 世界はどうなってしまったのだ? 日本という国はどうなった? そもそもここが自分の知っている世界と同じなのかすら疑問だ。だが、目の前にいるこの男が向けるまなざしは、決してこちらに疑わせる余裕は与えはしなかった。

 まるで、人間を視る目から闘犬を視る目へと変わりつつある。


「そもそも俺はこんな世界、知らない……」

 軍兵の言える、唯一の感情の吐露。

 久造は頭をかいた。

「やれやれだ……君がそこまで何もかも知らないというのなら、教えてやってもいいが」

 不思議と苛立を抱えているようには見えない。いや、自こちらの愚かな態度すら、鑑賞に耐えるものとして愛玩しているかのよう。

「今この街を支配しているのは我々、『帝国』だ。だが今街の外をうろちょろしている『賊軍』によって治安は日々脅かされている。君は何か目覚める前の記憶を持ってないのか?」

「人間は死を超越した」

 ささやくように、久造。

「もはや生きている人間はいない。絶滅してしまった」

 まるで、一たす一は二だと教える口調。

「子孫を作ることなどできない相談。である以上死んだ人間を蘇らせてより良い世界を創る。そのために我々の『帝国』は存在する」

「……なるほど」

 違和感を覚えた。いや、おかしいと分かっているはずなのだ。それは、軍兵にとってもっとも確固たる『事実』だった。

「この世界には生きている人間はいない。もはや我々は死んだ人間だ」

「いえ、僕たちは……生きている人間でしょう?」

「生きている?」

 軍兵は、理解できなかった。この世界に生きている人間がいないとはどういうことだ。

「僕たちは生きてるんじゃないんですか? 死んだら人間は、何も、できない……のか?」

 急に、自分自身の言葉に疑問が生じた。それは、自分の本来いうべき言葉ではなかったような気がする。

「それは善かった!」

 久造は喜んだ。

「我々はちょうど新しい人間を求めている所だ。生きている人間がいなければ国は成り立たんからな」

 両腕を挙げて、感情を誇って見せる。

 当然の言葉を言っているにも関わらず、軍兵には異様な恐怖が生じた。

 もはや久造は遠慮せず、軍兵の肩をつかむ。

「この後は決まっているようなものだ。連れて行け」

 一体それが何の宣告だったのか、診断する時間も与えられないまま、二人の看守に肩をつかまれ、また違う空間へと引きずりだされてくる。死ぬのではない。死ぬより、もっとひどい目に遭わされる。

「や、やめろ……!」

 軍兵は恐怖のあまり、叫んだ。こんな最悪な状況なんて、今まで経験したことがない。もはや、何も考えていたくなかった。

 だが、幻聴は、それを華で笑うようにこう返す。――もう俺は一回死んでるんだ。今さら何も怖れることはないさ――

 死んだ? 違う、俺は一度だって

「死んでない……!?」

「いよいよ気が触れたな、臆病者!」

 刑吏の一人に、頭をごつんと殴られる。しかしもう軍兵の関心はもうそこになかった。

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