現代的遠吠えについての考察
犬として生を受けた以上、一度はやっておきたいことがある。聡明な諸兄であればおおよそ見当がついているとは思うが、あえてここは丁寧に、人と犬の違いについて説明しておきたい。
別に歩行体制については今更述べる必要は無いだろうし、我々として個性の象徴である毛をはじめとした容姿のことでも無い。
そう、言葉の発しかたが大きく違うのだ。
こと人間というものは言葉によって感情を表現する際に、贅を尽くして細部の際まで気を配っている。しかもその表現は地域によって大きく違う。今、私が述べている言葉は便宜上一部の島国で利用されているものにローカライズしたものを用いているが、これ以外にも両の足、若しくは我々の誇りとも言う歯の数をも凌駕する種類があるという。つまりは感情を訴えたとしても、遠く離れた地にいる者に対しては伝わらないというのだ。
理解するのが難しいと感じている者たちも多いだろう。自分の発した言葉が相手に届かないというのは想像したことも無い。私としても、若き日によく牙を合わせた奴らと、意思が通じ合わなかった試しはない。とはいえ、最近では特定の優秀な人が地域を横断して意思疎通を図れるというから、すべての人が愚かであるという結論を出すのは早計というものである。
さて、言葉によるコミュニケーションの大切さを理解していただいたところで、最初に掲げた問いに戻ろう。
我々は何の因果かわからないにしても、こうして犬の生を謳歌している。時代によってあり方はことなっているが、近年では人と生をともにすることが多いことは言うまでも無い。かくいう私も長田なる人物とともに生活している。よく勘違いする者もいるが、私と長田の間に主従関係といったものは介在していない。互いに支え合う、いってみればパートナーという存在であると認識していただければ幸いである。
またしても話がそれてしまったが、長田氏との生活に関して、すべてが不満というわけでは無いのだ。衣食住にも困っていないし、それなりに娯楽というものも嗜んでいる方だ。しかし、まあ、パートナーとして生活しているのであるから、ある程度のルールが存在する。
再び本題がそれることを避けたいので、些末なルールの説明は省略するが、言葉に対しての制約が設けられていることは無いだろうか。といっても別に言葉を交わすなということまでは言われていない。むしろ、長田氏が求めたタイミングで話しかければそれはそれで喜びを分かち合えるというものだ。
問題は声量だ。人というのはことさら集団で住みたがるようで、最近はマンションと呼ばれる物件も多い。長田氏は幸いなことに一戸建てというものに住んでいる為、マンション住まいと比べればそこまで声量に気を遣わなくても良いようだ。
ああ、一戸建てというものが想像しがたい方は、いわゆる外飼いと呼ばれ風雨にさらされていた先祖たちが勝ち取った物件、一部では犬小屋と呼ばれているそれの大きいものと想像していただきたい。マンションに関しては実物をご覧頂くのが早いと思うので、お手元のタブレット端末で画像検索していただければ良いだろう。
どちらにしても、最近は騒音被害などという問題が人の間で話題になっているようで、なかなか苦労していると聞く。それは同時に我々の生活にも直結し、大声でのコミュニケーションは慎むべし、というルールが敷かれることが多く、かくいう長田氏も同様の考えを持っている。
違反した場合でも、大抵は注意喚起で済まされているが、猫たちが夜中に大合唱を奏でていたところ、人による強行採決で、一体の猫という猫に去勢手術が施されたという痛ましい事件があったことを忘れてはいけない。人のルールから逸脱するというのは大きな危険があるものだ。
ともかく、我々はこのような抑圧された環境で生活を強いられている。失礼、抑圧とは言い過ぎであった。節制を余儀なくされていると訂正させていただきたい。
ここまで説明すれば、少々ぼんやりとしてしまった者もお気づきだと思われる。そう、我々は誇り高きオオカミとしての心を残しながら、遠吠えというものが封じられているのだ。
思い出してみてほしい、オオカミとして、至上の生を実感する時というのはどのような時か。人がオオカミを想起する時は月に向かって遠吠えをしている時ではないだろうか。
ここで想起される反論については先に潰しておきたい。我々はオオカミでは無く、犬であるから、遠吠えが必須では無いという意見をお持ちの方もいるのではないだろうか。無論、そのような心持ちであってもとがめるつもりも無いが、我々とオオカミとの間に生活スタイルの違い以上の差異が見れないことを主張しておく。 まあ、今までに遠吠えをしたいと思ったことが無いかどうかを今一度見直していただければ、自ずとのこの問題は霧消するものと確信している。
何度目かはわからないが、本題に戻ろう。動物も草も眠りにつき、しんと静まりかえる野山の中で、私の声だけがどこまでも響く。想像しただけでも至上の時間である。特に雨が上がった後に晴れた夜――このような時に月が出ていることが多いのだが――には空気も澄んでいて、果てに見える山々から声が反響してくるような、そんな気持ちに駆られるに違いない。もちろん、一面が銀色に染まるような雪景色における遠吠えというのも捨てがたい。発した声が降り積もった雪に浸透し、遠吠えの中に垣間見える静けさを感じられることだろう。
さて、聡い方々はお気づきであろうが、以上は推定によるものとなっている。長田氏の許可無く遠吠えを犯せば、今とは違った首輪、或いはそれ以外の何かを口にはめられてまうことである。しかし、私としてもこの衝動を押さえつけるにも限界がある。誇り高く、理性にあふれている我々犬であろうとも、生の根源から湧き上がるこの想いを止めることはできない為、人が行っているという言葉で贅を尽くした表現を行ってみたものである。以上をもって、実験的な遠吠えに変えさせていただきたい。
なお、私の遠吠えに対する衝動を少しでも抑えることができればという期待はあるが、どうにも根源から異なっている可能性もある。この結果については、後日、何らかの形でご紹介する機会をもうける予定であるのでお待ちいただければ幸いである。
※なかなか不慣れな肉球による操作を余儀なくされ、一部表現が意図しない物になっている可能性もあるが、これは本筋とは異なる物であるので、ご容赦いただきたい。