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蜃気楼の鵺  作者: 伏見七尾
参.
16/17

五.細雨の月

 夜――チエ子はぼんやりと原稿用紙を見下ろす。

 いくらか、書いた。

 良いものなのか、悪いものなのか。上手なのか、下手なのか。

 どれだけ読んでも、さっぱりわからない。唸って書いているうちに柱時計の音さえ耳障りに聞こえてきて、チエ子は鉛筆を置いた。

 畳の上に置いた盆に手を伸ばし、水差しを取った。

 そこから冷えた番茶を椀に注いで、口を付ける。渇いた喉を、茶は甘く潤した。

 椀をまた盆に置いた時、床の軋む音が聞こえた。

 そうして、襖越しに声を掛けられた。


「――チエ子さん、起きてらっしゃいますか」

「魅谷さん?」


 チエ子は慌てて立ち上がり、襖を開けた。

 廊下の闇をまとうようにして、魅谷が立っている。やはり顔色は青白いが、昼間に比べると幾分かその声には張りがあるような気がした。


「遅くにすみませんね。これから床に着くところでしたか」

「いいえ、もう少し書いてみようと思ってて……」


 チエ子は言葉を濁す。

 魅谷は部屋を覗き込み、文机と原稿用紙とを見た。そしてチエ子に視線を戻す。


「良ければ、ぼくと少し出かけませんか」

「出かける? こんな時間に、ですか?」


 えぇ、と魅谷はうなずく。確かによく見ると魅谷は着流しの上から二重回しの外套をきて、どこかに出かける様子に見えた。

 ふと、チエ子は鎖籐が魅谷のことを夜行性と称したのを思い出した。

 思えば最初に出会った時も、魅谷は夜更けに酒を呑んでいた。


「夜が好きなんですよ、生来」


 チエ子の心を見透かしたように、魅谷は薄く笑う。

 その青白い顔をまじまじと見つめて、チエ子は逡巡した。

 こんな夜更けに出かけるのはよろしくないのではないのか、という躊躇。一体魅谷はどこにいくのだろう、という好奇心。

 結局好奇心が勝って、チエ子はうなずいた。


「出かけます」

「では、支度をして。ただあまり派手な格好をすると良くない。ぼくが合羽を用意しますから、それを着ていくと良いでしょう」


 しばらくして、チエ子は魅谷の用意した合羽に袖を通した。

 しかし、少しばかり大きい。見かねた魅谷は、「こうするといいでしょう」とばっさりと鋏で余った裾と袖とをチエ子に合わせて切ってしまった。


「ごめんなさい……あたしのせいで、合羽が……」

「気にしなくとも良いのです。合う形にしただけなのですから。――さぁ、行きましょう」


 蛇の目傘をさした魅谷とともに、チエ子も傘を差して街に出る。

 雨は、さらさらと降っている。

 黄色い街灯の光に照らされて、それは透明な糸のように見えた。濡れた地面を慣れない長靴で踏みつつ、チエ子は魅谷の長細い背を追った。

 同じように傘を差したり、合羽に身を包んだ人もちらほら見かけた。

 と、不意に魅谷が蛇の目傘を持ち上げた。


「ごらん、月が……」


 小さなこうもり傘越しに、チエ子は上を見上げる。

 薄墨のような雨雲が裂けて、はざまに満月の形が浮かぶのが見えた。やわらかな光が、夜雨をきらきらと光らせているようだった。

 自然とチエ子は足を止め、空を見上げる。

 雲は様々に形を変え、流れていく。

 おぼろげな月はそれに隠され、掻き乱され、様々に姿形を変えた。

 いつまでも見ていたい気がした。


「……そら、そろそろ行きましょう」


 待っていた魅谷に声を掛けられ、我に返ったチエ子は慌ててその後を追った。

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