9 榛の葛藤
一葉は泣きながらいつの間にか寝てしまったみたいだ。自分に委ね遠慮していた体の重みはふっと重みを増した。
俺は彼女が起きないように艶やかで滑らかな長い髪が表情を見せにくくしていたのを指でゆっくりと彼女の背中へと流した。
泣かせるつもりじゃあ、無かったんだけどな。
少しだけ腫れた瞼を見て心が痛んだ。
***
昨日仕事が終わってから声が聴きたくて電話をかけると、具合が悪そうで普段の声とは明らかに違っていて直ぐに分かった。とても一人にしておけなくて、直ぐに家を飛び出し一葉の元へと向かった。
慌てて駆けつけて見れば、白い顔をしていて聞くまでもなく具合が悪いのは一目瞭然だった。どこがどう具合が悪いのか問うとストレスだと言う。そして次に見せられたパソコン画面を見ると、そこにはまだ俺が知らなかった会社を辞めた理由が書かれていた。
「えっ、ちょっと待って、一葉。これ、どういうこと?会社辞めた理由って頚椎症と人間関係だけじゃないの?」
偶然街で再会した時に会社を辞めた理由は聞いていた。頚椎症と社内の人間関係が酷かったのだと。同時期に窃盗被害を受けていたなんて全く知らなかった。
社内で犯罪被害。
その一言に俺は衝撃を受けた。体調不良が主な退職理由だと思っていたから。
一葉が仕事を辞めてから小説を書いたものをネットで公開していることは知っていたけれど、言い出せない辛い体験を体に不調をきたしてまで書いて欲しくなかった。
「嫌なことを誰かに吐き出せば少しはすっきりするのかも知れないと思ったのと。榛さんとずっと付き合いたいから今のうちに知っておいてもらいたかったの」
そう言われては、しぶしぶ思いながらも引き下がるしかなかった。その代わりに小説を書く時間を制限したり、食事を必ず食べる事と、俺が一葉の所に泊まることを約束させた。1人きりにさせるといつ倒れるかと心配で仕事どころじゃなくなるから。
夕食を一緒に食べ、夜は狭いベッドに一葉を抱きかかえるようにしてただ眠りについた。
付き合いたてで、一度だけ体を重ねたことがある好きな女をただ抱いて眠ることにかなり理性をねじ伏せる羽目になったが。
柔らかな感触と匂いにどれだけ抱きたいと思ったか。
でも、心と体を弱らせている一葉に無理はさせたくなかった。自分の本能の赴くままに抱いてしまえば新たな傷を増やす事態になっていただろうから。
人と向き合うことにとても臆病になっていた一葉の信頼をようやく得られたのに自分から壊すことは絶対にしないと決めたんだ。
仕事から帰って来て、心配しながらドアを開ると一葉のほうから俺に抱き付いてきた。
「榛さん、お帰りなさいっ」
今日は昨日とは打って変わって、明るい笑顔で。
いつもどこか俺に遠慮がちな態度で接する普段の彼女からは考えられない程の出迎えに面食らったが、嬉しくない筈がない。
「ただいま、一葉。良かった、体調は悪くないみたいだね。嬉しいな、俺が帰って来るのこんなに待っててくれたんだ?」
だらしなく緩む頬をなんとか見せないように堪えつつ一葉の頭を撫でれば、変わらずに抱き付かれたままはにかんだ笑顔と上目使いで今日あった嬉しい報告があるのと告げてきた。
うわっ、なに、この可愛い生き物!マジで可愛すぎるんだけどっ!
めっちゃくちゃ押し倒したくなった気持ちを必死で押しとどめ、持ったままのビジネスバッグの持ち手を力一杯握ることで耐え、邪な心を悟られないように笑みを浮かべた。
一葉が作ってくれた夕食を食べた後で(凄い美味かった。特にふわふわな卵焼き)、昨日の小説はどうなったのか尋ねると最後まで書いてしまったと返事が来た。
俺が傍にいてくれると思ったらあっという間に書けてしまったらしい。体調不良にもならずに書けたことは喜ばしいのだが、残念だと思ったのも事実で。
一葉のアパートに泊めて欲しいと言ったのは、体調を心配したから。その不安が無くなったのなら俺は泊まらなくて良くなったということ。一度自分のアパートに戻って着替えまで持ってきて泊まる気満々だったから拍子抜けしたというか、なんというか。
素直に今日は帰ろうかなと伝えると、すっごく嬉しくて楽しみにしてたのにと、しょぼんとしてしまった一葉にまたもや俺は悶える羽目になった。
あー、もうっ、ここに居たい。帰りたくないーっっっ。
「そんな顔しないで、一葉。誤解して欲しくないんだけど。俺、弱ってる一葉に手は出さないでいられるけど、元気な一葉が傍にいたら一晩とても我慢を出来そうにないからさ・・・」
ぼそっとつい本音を漏らしてしまった。
言うつもりがなかった本音を漏らしたことを失敗したと反省するべく俯むくと、一葉は俺の言葉に照れまくり俯いていた。
・・・お願いだから、俺の理性がどこまで持つのか試す様な仕草を見せないで欲しいんだけどねぇ・・・。