3 約束するなら
床で横になった私を榛さんは慌てて抱き上げてベッドまで運んでくれて、自分は床へと座ると呼吸が落ち着くまで冷たく氷のようになっている私と手を繋いでいてくれた。
多分ストレスが原因で呼吸が浅くなって血行障害を起こしたのだろう。
痺れて冷たくなっていた指先が横になって呼吸が安定したことと、榛さんが傍にいてくれて安心して、手を温めてくれたこともあってじわりと体温が戻ってきた。
そこでようやくどうしてこんな体調を悪くしているかを問い詰められた。
「嫌なことを誰かに吐き出せば少しはすっきりするのかも知れないと思ったのと。榛さんとずっと付き合いたいから今のうちに知っておいてもらいたかったの」
「一葉・・・」
どうしても最後まで書きたいのだと言う私に榛さんは勿論いい顔を見せなかった。
体に変調をきたしてまで書くのは控えた方がいいと。
それでも最後はしぶしぶながら折れてくれた。
「ねぇ、一葉。どうしても最後まで書きたいというのなら書き終わるまでもっと俺の事を頼ってよ。こんなになってまで書いてるなんて考えただけで仕事してても気になってしょうがない。だからせめて俺をここに泊まらせて。っていうより泊まるから」
お願いというやんわりとした脅迫から、断定へと変化した。
「はい?」
なんでいきなりそんな話になるの?ここに泊まる?
「どうしてっていう顔してるけど、これ書いている間一葉は食事どうしてた?ちゃんと食べてた?碌に食べてないのは間違いないよね」
「ええーっとお」
殆ど食べていないことがばれている。
手を握られたまま榛さんの顔を横を向いて見ていたのだけれど、気まずくなって顔を天井へと動かし視線を泳がした。
「やっぱりね」
ふうと彼の重い溜息が聞こえた。
「元々痩せてる方なのに、さらに痩せてどうするの。一葉は一人暮らししてるんだから自分で自分の体を痛めつけるようなことしちゃ駄目でしょ。特に今はまだ健康な体とは言えないんだから」
頚椎症の薬を飲んでいるので確かに健康とは言えないのだろう。
まっとうな正論にぐうの音も出ない。
「ご、ごめんなさい」
全面的に悪いのは自分なので素直に謝った。
「それにパソコンに向かっている間カラーは使ってた?」
カラーと言うのは整形外科で処方された首に巻くマフラー見たいなもので、よく車の衝突事故に遭った人がむち打ちになって首に巻く白いあれのことだ。
「うっ」
「・・・使ってなかったんだ」
更なる追い打ちに謝りも言えなかった。
もう一度、重くて長い溜息が聞こえ、いっそう目を合わせられなくなった。
あう。
「だって、あれ巻いてると体が熱いんだもん」
確かに眩暈は軽減されるのだが、兎に角首全部をカラーで固定してしまうので身動きがしにくい上に熱が籠って熱いのだ。
「熱いんだもんじゃないでしょ。もう秋も終わりに近いんだから、夏程には耐えられなくはないでしょう。きちんと使いなさい。自分の為なんだから」
「う。・・・はい」
私よりも二つだけ年上の榛さんに外科の先生みたいに注意された。榛さんに私はどれだけ心配をかけさせているのだろうか。
ほんと、情けない自分が嫌になる。
「そんな泣きそうな顔しないの。一葉の体が心配だから言ってるんだからね。取り敢えず俺は近くのスーパーにでも行って買い物して来るから一葉はそのまま暫く横になってて。欲しいものあればついでに買って来るけど。後食べたいもののリクエストある?」
立ち上がった榛さんは私の事を上から覗き込み、苦笑しながらくしゃっと私の頭を撫でた。
仕事が終わってから来てくれたから、時刻はそろそろ20時を回ろうとしている。
「えっ、もしかして本当にここに泊まるつもりなの?」
ほっとけない私の事を励ますつもりだけの為に言ったのではないらしい。
「そうだけど?」
榛さんとは付き合い始めて一か月ほどしかまだたっていない。
何度かお互いのアパートを行き来したこともあるし、一度だけ榛さんの所にお泊りをしたことはあるけれど。
その時に、彼には私の初めてを貰ってもらったのだが、男の人と付き合うことが初めてな一葉はこういう時どうすればいいのかが分からない。人付き合いがもともとそれほど得意ではない上に、恋愛経験なんて全くないのだから。多少知っていると言えば、ネットや紙の上から知り得た情報があるだけだ。
「当然でしょ。無茶をする可愛い彼女を一人になんてしておけないよ。大丈夫、こんな弱っている一葉に無理やり手を出したりしないから。俺が心配だから傍に居たいだけ。最後まで書きたいなら約束して。俺が仕事に行ってる間だけ小説を書くこと。それ以外は禁止。一日に三食食べること。夜は睡眠をきっちりと取ること。それが守れないようなら、この続きは書かないで欲しい。・・・どうしても一葉の体が心配だから」
沢山の要望を言われたが、それは全部私の事を心配しているからだ。
そこまで言われてしまっては、断ることなど出来なかった。
「ごめんなさい。私が我儘言って最後まで書きたいなんて言ってるから」
自分の自己管理さえまともに出来ていないのに、主張だけは言ってる私の事を怒って止めさせるでもなく心配して傍にいてくれるなんて。情けなくて涙が出そうだ。
「こういう時は謝るんじゃなくて、一葉には有難うって言って欲しいな」
今度は優しい口調と穏やかな目で見つめられていた。
「榛さん、有難う。それから」
「それから?」
「本当は一緒にいてくれると凄く嬉しい」
最後まで書きたいと言ったけれど、体力的にも精神的にも不安を感じていない訳じゃない。むしろ日数がかかればかかる程悪くなりそうだと思っていた。それでも、書きたいと強く願ってしまったのだ。
そんな私に注意はするけれど、怒るでもなくむしろ支えようとしてくれている榛さんにはどれだけ感謝していいのか計り知れない。
「良く出来ました」
そう言って笑ってくれる榛さんを見て、私は改めて榛さんの事をとても好きなんだと再認識した。