きゅう。
SIDE 大地
書類が襲ってくる。
時間が迫ってくる。
クライアントが血走った目を向けてくる。
ああああああああああああああああああああああもう。
憧れていた弁護士の仕事はもっと華やかで、正義感に溢れていて、邪念なんて抱かないほどに没頭できるものだと思っていた。
でも実際のところ、下調べに掛ける時間が半端ないし、法廷で派手なパフォーマンスなんて以ての外だし、弁護したくないクライアントだって多い。
仕事をすればするほど邪念も膨らんでいって、色んな意味で色んな欲求不満になる。
とりあえず…今は寝たい。
ああ、でも、それよりも。
一目でいいからアイツが見たい。
会いたい。
会いたい。
アイタイ。
きっと俺の邪念が膨らみすぎて顔に出てきたのだろう、所長が引きつった顔をしながら帰宅を命じてきた。
願っても見なかった言葉に遠慮することなく帰り支度を始める。
働き詰めだったんだし、所長からの命令だから仕方が無い。
うん、睨むな同僚たちよ。
「すんません、お先に失礼します」
「おう、ゆっくり寝ろよ!それか煌びやかなお姉ちゃんと遊んですっきりして来い!」
…やっぱり邪念が漏れ出しているみたいだ。
重たい体を引きずるようにマンションへと帰ってきた。
エレベーターのボタンを押すと14の数字が光った。
降りてくるのに少し時間が掛かりそうだ。
やばい。
立ちながら寝そう。
「あ、大地だー」
不意に聞こえてきた女の声。
嫌というほど聞きなれた、耳に馴染んだ声。
このタイミングでお前が来るか。
くそ、試練なのかご褒美なのかどっちだ。
振り返るとそこには、綺麗めなパンツスーツを着て右手にエコバックをぶら下げた幼馴染がいた。
傍から見たらバリバリのキャリアウーマンに見えるだろう彼女は、すらっとした長い足にヒールの高いパンプスを履き、真っ直ぐでサラサラで艶やかな黒髪を緩く纏め上げ、魅惑的なうなじを見え隠れさせていた。
エコバックを持つ逆の手には革製のトートバックを肩から掛けていて、書類や資料が詰まっているそれは、軽くバックの許容を超えているように思える。
そんな彼女が自分に向けてコロコロと笑う。
普段、綺麗に分類される彼女は笑うと一変、可愛くなる。
俺の、邪念。
あーーー可愛い。
可愛い可愛い可愛い可愛い。
抱きしめてぇ。
キスしてぇ。
もちろん、俺のこんな邪な考えなんて悟られてはいけない。
16年も掛かって築き上げた関係は壊させない。
おいそこ、ヘタレとか言うな。
泣くぞ。
「あ、ねぇ、疲れてるなら後で夕飯持って行ってあげるよ」
まじで?いいの?本当に?
彼女の笑顔で大分癒されたのは事実だが、体の限界は隠せない。
正直、くっそ腹が減ってる。
作る気力がないから何かデリバリーでも頼むかって思ってたところにこの天使が舞い降りた。
しかもハンバーグだってさ。
天使じゃなかった。
神だった。
「じゃあ出来たら持って行くから」
「ああ…」
待ってる、と言い掛けた。
彼女が滑り込んだ向かいのドアから漏れる光。
今帰って来たのに玄関が明るい?
センサー付きに変えたとか?
何だろう、どうってことないことが妙に気になった。
疲れきっていた頭がサーっと冴えていく感覚。
くいっと首を傾けて彼女の部屋の中を覗き込む。
ゆっくりと閉まっていくドアの隙間。
彼女の後姿の向こう側。
リビングに繋がる少し長めの廊下から、ちらっと見えた、人影。
「…!!?」
全身がぶわっと粟立つ。
考えるより先に体が動いていて、気がつくと彼女の部屋に半身をねじ込んでいた。
びくっと肩を震わせた彼女がこちらに振り返る。
その後に人影なんてない。
いるのは彼女のペットの、猫だけ。
「(見…間違えか?)」
この廊下には収納スペースが備え付けられているが、この短時間に人が隠れられるようなものではない。
少々力を入れてグッと引出すタイプの扉は、他のものよりゆっくりと開閉する仕組みとなっている。
よって、ここには、人なんて、いないということ。
「(疲れてんのか?)」
「…あの…な、何、か?」
やばい。
ビビらせてしまったみたいだ。
彼女の足にぴったりとまとわり付く猫からも怪しむような視線がビシビシ飛んでくる。
「えと、面倒だからお前の家で飯食わせてもらおうかって…思ったんだけど、何をそんなに驚いているんだ?」
仕事で培われた鉄壁のポーカーフェイスを総動員してしれっと答えてみたが、内心は心臓が喉の辺りまで上がってきているみたいにドクドクと煩い。
いきなり入ってくるな、だのびっくりさせるな、だの怒りながら部屋の中へと進んでいく彼女の後ろをゴメンゴメンと謝りながら付いていく。
何も咎められることなく彼女のプライベートスペースに入る。
女性らしいふんわりとした、柔らかい香りがする。
俺だけの特権。
この関係が幸せで、壊したくなくて告白も出来ないヘタレ男子のくせに、他の男の介入を一切許さない。
コイツには俺がいる。
いつだって隣にいて支えてやる。
だから、他は誰もいらない。
自分でもイカレた奴だと思う。
彼女に対してのこの感情は、好きだとか愛してるとか、そんな軽い言葉では言い表せない。
依存。
俺はこのみに依存している。
彼女が他の男のものになるなんて、考えただけでも狂ってしまいそうだ。
俺のものになって欲しいなんて、そんな贅沢は言わないよ。
だからせめて、誰のものにもならないで。
友達でもいいから、兄や弟と思っていてくれてもいいから、俺をお前の一番にしておいて。
このみを誑かす男がいるのなら、どんな手を使っても排除する。
今まで、そうしてきたみたいにね。
ああ、このみ。
大好きだ。
愛してるよ。
今日までひた隠してきた俺の狂気を、これからも、知られてはいけない。
ヤンデーレ。
ダイチ・サン・ヤンデーレです。