に。
出版社に勤める私の日々は、一言で言うと多忙だ。
担当している作家の佐久間先生はとっても真面目な方で、〆切だの打ち合わせだのが押したことは一度も無い。
その代わり、人間の好き嫌いが半端ない。
歯に衣着せぬ物言いでばっさりと拒絶を表すものだから、歴代の担当者の中には30分でチェンジを言い渡された人もいたそうだ。
なんでも、その担当者のネクタイの趣味が受け付けない、とのこと。
たったそれだけで、と思うところだが、感受性の強い作家たちからすると、自分と趣味の合わない者に自分の作品の良し悪しを口出しされたくない、だそうだ。
うちの先生は、その感覚がちょーっとひねくれてる気がしなくもないが、根底にあるのはそういった考えらしい。
まぁ、うん。
納得できます。
その半面、作品に対する愛情は海より深い。
文明が物凄い速さで発達する今日で、先生は未だにペンと原稿用紙で仕事をする。
一文字一文字書き綴られていく作品が、他のものより誇らしげに光って見えるのは身内の贔屓目なのかどうなのか。
担当になる遥か昔から、私はこの先生の作品が大好きなのだ。
室長から先生の担当の引継ぎを命じられたとき、嬉しくて、嬉しくて、作品を生むお手伝いが出来ることが光栄すぎて辞令を持つ手が震えたほどだ。
初めてご挨拶に伺った際には一番のお気に入り作品にサインをいただいた。
ミーハーな行動に恥じもあったが、それを上回る興奮に襲われたのだ。
私が持ち込んだ作品は、随分前に発行された歴史文学『楔』。
増刷を繰り返す先生の他の作品とは異なり、この作品だけは何故か世間に受け入れられず、何の話題にもならず、今では忘れられたように大型書店でさえ取り扱うことがなくなってしまった。
しかし先生は、今まで生み出したどの作品よりも『楔』を愛していたのだ。
詳しいことは語ってくれないのだが、『楔』に掛ける想いは一入で、売れようが売れまいが関係ない!と当時担当の反対を押し切って生んだ作品だという。
そんな大切な秘める我が子を、入社して数年のまだまだひよっ子な私が後生大事にしていて大層驚いたと後に話してくれた。
『楔』の良さに気づける人間を私の担当にしなくてどうする、と真面目な声で言われ、私は溜まらず泣き出してしまったのはいい思い出。
それ以来、私は4年と少し、先生の担当をしている。
「た、ち、ばーなっ!」
「うひゃあ!!」
パソコンとにらめっこしながら資料をまとめていた私の頬に、唐突に缶コーヒーが当てられた。
その冷たさに口から変な声が出てしまった。
「柚木さん!びっくりした~」
背中まで伸びる栗色の髪を綺麗にカールさせ、『お姉様』という言葉がピッタリな柚木香子さんがふわりと笑う。
上品なローズカラーの口紅はよれ知らずで美しい。
ああ、今日も今日とて良い香り。
これで今年さんじゅうな…げふんげふん。
…こんな大人な女性になりたいわ。
「ふふ、もう就業時間なのにガチャガチャとテキスト打ってるからよ。ほら、これでも飲んで。今日はノー残業デーなんだから帰らなきゃ」
今日は水曜日。
わが社では巷で流行の残業をしてはいけない日というのを決めていて、それが今日。
毎週水曜日は18時以降の残業禁止。
違反者にはとっても恥ずかし~いお仕置きが待っているらしいのだが、その内容は違反をした者にしか分からない。
この決まりが始まってすぐに仕事の鬼と言われていた室長が盛大に残業をして、翌日の朝一に副社長に呼ばれていった。
小一時間ほどして帰ってきた彼は、フロアにいた社員が揃ってたじろぐほどの赤面に涙目というまさかの顔をしていた。
そして、何があったかを決して口にしない。
聞くのも怖い。
あのいたずら好きなやんちゃな副社長に辱めを受けたくない一心で、水曜日はみんな定時の17時半きっかりの終業を目指すのだ。
「あ、もうそんな時間ですか。ありがとうございます!これ保存したら帰りますね」
「うん、お疲れ様。私はお先に失礼するわね」
「お疲れ様です」
フロア内も人が疎らになってきて端のほうから徐々に電気も消されていく。
急げ、急げと自分を急かしながらカバンにファイルを仕舞っているとき、ふと今朝のことを思い出した。
あの不法侵入の素敵な男性のこと。
仕事に夢中になってしばし忘れていた彼。
「そういえばあの人、ちゃんと帰ってくれたかしら」
エレガントな女性って、なんであんなに良い香りがするんですかね。さり気無くくんかくんかしてすみません…。