じゅう、さん。
ビルの4階に位置する副社長室。
向かいには社長室の扉がでーんと存在感を示しているがその扉は分厚く、中に人がいるのか分からない上に外にいる誰が何をしてもちっとやそっとじゃ中には聞こえない。
防犯や防災上如何なものかと思われるが、それがうちの会社だ。
エレベーターを降りるとさほど長くない廊下が続く。
毛の長い絨毯が敷かれていてヒールで歩いても足音ひとつしない。
突き当たりにある秘書室は薄暗く、ノー残業デーをきちんと守って一人残らず帰宅してしまっているようだ。
もしかして、フロアにこの危ない副社長と二人きり?
部長のときは明朝一番だったのになぜ私は即日なんだ。
せめて心の準備をさせて欲しい。
―ガチャ
「さ、どうぞ」
扉を押さえて私を中に促す彼の顔は余裕に満ち溢れ、自分のテリトリーに自ら足を進めて来た獲物をどう料理しようかわくわくしているようにも見えた。
そのわくわくがサディスティックな方向に進まないことを祈る。
肉体的な痛みはもちろん、精神的な痛みも出来ることなれば回避したい。
お仕置き怖い。
初めて入る副社長室。
大きなデスクに応接セット。
壁際のキャビネットには難しそうな書籍や分厚いファイルが隙間なく並べられている。
その全てがシックなブラウンの木目で統一されているのが彼の趣味なのかどうか定かではないが、とにかく出来る大人の雰囲気が半端ない。
こんな部屋にあるあんな大きな机で仕事をしてみたいものだ。
入り口から見て正面の壁は一面ガラス張りになっているはずだが、今はアイボリーのカーテンによって外からの光や視線が完全に遮断されていた。
ベルベットだろうか…重そうなカーテンだ。
「さて、と」
いかにも座り心地の良さそうな椅子に腰掛けこちらを見据えてくるその人はもう、重役のほか何者でもないオーラを放っていた。
黙っていればちゃんと偉い人に見えるのに。
しかし若いな。
童顔というべきか。
6つも年上なのに同い年といっても違和感がないと思う。
「どうした?緊張しているのかい?」
「…はい」
くすくす笑う副社長は本当に楽しそう。
何がそんなに楽しいのか教えて欲しいくらいだ。
いや、やっぱりいい。
知らぬが仏。
お仕置きって何だろう。
部長が半泣きになるくらいだから辛いものなのかな。
退職届書けとか言われたらどうしよう…。
死刑判決を待つ囚人のような気持ちで副社長の前に直立する私。
「今日は何をしてて残業したの?」
「…え、あっえと、佐久間先生の新刊の広告コピーを作っていました。行き詰っていたわけではないのですが上手くまとめられずこんな時間になってしまい、本当に、も、申し訳なく…思って…」
目を逸らすことなくじっと見つめられて思わず言葉が尻すぼみになる。
逃げたい。
本当に逃げたい。
だが、目の前の男はそれを許してはくれない。
「あの新刊はまだ入稿したばかりだろ?ゆっくりしていられないにしても、急ぎすぎじゃないか?」
仰るとおりです。
入稿後即店頭販売…という訳ではない。
原稿用紙の束で入稿された作品の初版がちゃんと売り物としての形になるまでに約3ヶ月半の時間を要する。
佐久間先生は念には念をと印刷の良し悪しや誤字脱字のチェックを行う初校も専門の校正者だけでなく、知り合いの作家や編集者などにも確認してもらい、読者の方が目を通すときには一切の不備のない完璧なものを目指しているのだ。
その分、他の作家さんの作品より完成するまでにかかる時間が大きく異なる。
まぁいつものこと。
そういったところも尊敬できる。
その間、原稿時に逐一作品を読ませていただいていた私は一時お役御免を言い渡される。
暗記してしまうほど原稿を読み込む私は校正に向かないらしく、担当であるにも関わらず入稿後の仕事はめっきり少なくなってしまう。
だからこそ、広告案を練りに練って少しでも先生のお役にたつのです!!
「ほんと、この仕事好きだよね」
「はい!」
胸を張ってそう言える。
本当にこの仕事は私の天職だ。
忙しさも楽しい。
疲れるほどやりがいを感じられる。
就職活動頑張って良かった。
過去の自分グッジョブ!
「そうやって仕事をしてキラキラ輝いている橘君、好きだなぁ」
「…え?」
「好きだよ」
「……は?」
カレーライスが好き。
ってくらいの口調で言ってのけた「好き」という言葉。
えと。
あれか?
love(女として好き)でもlike(人として好き)でもなくfavorite(お気に入り)的な?
それとも、頑張って仕事してる社員かっこいいぞ!その調子で立派な社畜になってくれたまえ!的な?
な……なんなの?
ニコニコにやにや笑いながら何かしらの返答を待つ副社長を前に、私は口を噤むことしかできなかった。
こんな重役欲しいわぁ。
楽しそうだねぇ。
実際いたら鬱陶しいんだろうなぁ。笑




