じゅう、に。
「橘さん、佐久間先生の新作、無事入稿したんだって?お疲れ様―」
「おー橘ー!入稿おめでとー!」
「お疲れさんだったなー、ちょっとはゆっくりできるのか」
一仕事終えて佐久間先生から頂いたシュークリームを頬張っていると、同僚が次々と労いの言葉を掛けてくれた。
「はひはとーほらいまふー(ありがとうございますー)」
編集者にとって、ひとつの作品を入稿まで持ち込むことは大変な時間と労力を要する大仕事。
ほぼ休み無しで作家に付き添い、業者との打ち合わせに社内での事務処理…。
自分の体がもう2つか3つ欲しいところだ。
入稿を済ませるということは、1つの山を越えたということ。
達成感と充実感と疲労感が一気に押し寄せる。
しかし、山を越えたからといっても休みが取れるわけではない。
作家が丹精こめて作り上げ、自分が身を粉にして形にした作品を売り込まなければならない。
次回作の案についても先生をつっつかなければいけないし、処理すべき書類は常に襲ってくる。
ああ、なんて忙しい。
ああ、でも、嫌いじゃないわ。
綺麗にお腹に納まったシュークリームに手を合わせ、きちんとご馳走様をする。
先生ありがとうございます。
最高に美味でした。
甘いご褒美に大満足して午後からの気合を入れる。
よし、頑張るぞ!!
きっと、入稿が嬉しくて浮かれていたんだと思う。
それか、シュークリームが美味しすぎて頭がふわふわしていたんだわ。
そう、そうに違いない。
佐久間先生の最新作を世に広めるための広告コピー案を夢中で作成していた。
パソコンの画面から目が離れず、手は忙しなくキーボードを叩く。
カチャカチャカチャカチャ…。
私は、仕事に夢中だった。
だから気がつかなかったんだ。
フロアに私以外の人がいないことに。
時計が18時15分を知らせていることに。
今日が、水曜日だったということに。
「た、ち、ば、な、くん」
妙な笑いを含んだ声に条件反射で背筋がピンと伸び、キーボードを叩く手が止まる。
つま先から頭のてっぺんまでぶわっと鳥肌が立った。
それと同時に自分の右肩に乗る大きな手。
「…え?」
ゆっくりと振り返る間に、視界に映るフロアが薄暗いことにようやく気づく。
…あっ…
私の肩に手を置いたままニンマリ笑う、筧副社長がそこにいた。
「…ひっ!!」
悲鳴を上げなかった自分を誉めたい。
頭がフル回転して警笛を鳴らす。
あれは捕食者の目だ!
人受けの良さそうな顔立ちなのに、なぜだか怖い。
捕まってしまっては無事では帰れないような、そんな危機感。
まずい。
やばい。
今日は水曜日だ。
今日は…ノー残業デーだ!!
「あはははは!!久々の獲物確保―!!橘君、捕ったどー!!!」
高らかに上がる副社長の拳に、私は身の危険を感じずにはいられなかった。
わが社の副社長は若い。
見た目や考え方も若けりゃ、実年齢も36歳と本当に若い。
社長の息子とかいう七光り的なものではなく、雑用からの完全な叩き上げで副社長の椅子に座る実力者。
ぶっとんだ発想と驚異的な行動力で会社に与える利益は計り知れない。
その上、頗る明るく社交的で子供っぽいやんちゃさが面白くて好きだと社員からの支持も高く、自分の能力に慢心せず下の者の教育にも積極的なため、彼に対する信頼は厚い。
ただ、イタズラ好きで有名。
「ふ…副、、副社長…様…」
顔面蒼白。
ガタガタと震える体を抑えることができず、酷い動悸がする。
「ふふ。そんなおばけでも見たような顔しちゃって。ふくく。ダメだよ、いじめたくなるじゃん」
に、逃げたい!
誰か助けて!
「今日が何曜日か知ってるー?今日が何の日か知ってるー?」
「き…今日は、す、すい…水曜日で、あの…ノー、、残業デー…です」
肩に軽く手を置かれているだけのはずなのに、ピクリとも動けない。
まさに、蛇に睨まれた蛙。
ガマ油たっぷり。
…気持ち悪…
「そうだよ、今日は水曜日で残業をしてはいけないと会社の決まりになっているんだ。決まり、破っちゃったね」
「は、はい」
「橘君が仕事熱心だって前々から知ってるよ。夢中になると周りが見えなくなるってことも。だからいつか、やっちゃうと思ってたんだよねー。」
「…は…い」
「今か今かと待ってたのに、毎回柚木さんとかどっかの番犬君が邪魔してくれちゃってさ。今日はラッキーだね。柚木さん外出して直帰だから定時を知らせてくれる人がいなかったんだろ」
「……はひ……ん?ば、番け…?」
おちゃらけた口調がどんどん低くなり、男を主張してくる。
怖い。
こわいこわいこわいこわい。
さわやかな笑顔がなんでこんなにも悪魔的に見えるんだ!!
「さあ、僕の部屋に来てもらおうか」
ひぎゃーーーー!!!!
おっしおき!おっしおきー!
ノー残業デーとかいいなぁ…。羨ましい。
…あ、残業なんて元々してないから意味ないか!




