いち。
ペロペロ…
「ん…」
ペロペロ…
誰かに手を舐められている。拓か、陸かな。
ペロ…ちゅ…
なんだろう。違和感。いつもと同じ猫特有のザラザラした舌の感触なのに、なぜか唇の感触もある。
でも…気持ちいい…。
「このみさん、そろそろ起きないと遅刻してしまいますよ?」
「ん……ん?…え!?」
女の一人暮らしの部屋のはずなのに、渋い男性の声!?
がばっと起き上がると目の前には、アッシュグレーの髪を後ろへ撫で付け、顎に整えたれた髭を蓄えた男性がいた。
しかも、恭しく片膝を床につき、ベットで寝ていた私の右手を自らの口元に添えている。
もしかして、もしかしなくても、今の今までこの人私の手を舐めていました?
「だっ…だれっ!どちら様!?なんで部屋の中に!?」
昨日は友人の結婚式で、祝いの席ということも忘れしこたま飲んだ。
しかし、二次会の後にこんなダンディーな男性をお持ち帰りした記憶は無い。
仕事人間な私がこんな素敵な方とお知り合いになった記憶も全く無い。
混乱と恐怖と羞恥を混じらせた私を、彼は柔らかい笑顔で眺めていた。
「ふふ、相変わらず可愛い人。昨夜の涙のせいで、少し目が腫れてしまいましたね」
「…なっ!」
なんでそれを知っているの?
昨日の結婚式はとても良いお式だった。
幸せそうにキラキラと笑う友人を見ていると、自分の立場や周りからの視線、将来に対する不安が一気に押し寄せて、盛大に被害妄想に駆られた。
三十路の独り身で、ペットを連れ込んでのタワーマンション購入。
男性が苦手なわけではないのに、なぜか昔から男っ気の無かった私の周り。
ひとりぼっちで生きていくのだと諦めたのは、割と早い段階だった。
私だって、素敵な旦那様との永遠の愛をみんなに祝福してもらいたい。
夢や理想は自らの後ろ向きな感情に押しつぶされ、いつしかコンプレックスとなり私を縛り付ける。
独身を非とする時代ではないが、やはり誰からも相手にされない女とレッテルを貼られている気がして焦り、もがき、諦める。
二次会も楽しいはずなのに涙が出てきて、それを隠すように途中退席し、家で一人泣き通したのだ。
あの会場にいた人には気づかれていないはず。
それくらいさり気無く帰ってきたから。
何より、知り合いばかりの二次会で、目の前の男性を見た覚えは無い。
あなたは誰?疑問ばかりがぐるぐる回って背中を冷たい汗が伝う。
ストーカー、不法侵入、婦女暴行、監禁、強盗、殺人、死体遺棄…。
物騒な単語が浮かぶ頭は冷静さを失っているのに、目がどうしても彼から離れない。
こ…この人、かっこよすぎる。
我ながら能天気だなと悲しく思う。
「このみさん、これについては夜にでもゆっくりお話しますので、今は出勤準備をされた方が賢明かと」
「え!?今何時!?」
「7時35分です。このみさんがいつも家を出られる15分前ですね」
「ふぎゃーーーー!!!遅刻するーーーーー!!!!」
バタバタと部屋中を駆け回りながらも頭を切り替える。
なんだか良く分からないけど、危険な人ではないっぽい。
多分。
おそらく。
メイビー。
最低限の化粧をして髪に櫛を入れながら彼に向かって半ば叫ぶように言う。
「とにかく!出てってください!何も聞きません!全て忘れますので出て行ってください!」
「うーん、そうは言われましてもねぇ」
歯切れの悪い返事に若干イラつきながらも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
今日は大事な打ち合わせが朝一であるのだ。
3つの色違いのお皿にザラザラと猫用のカリカリを入れる。
溺愛する愛猫たちと朝から戯れられなかったことに涙を浮かべながらも玄関へと走った。
パンプスをつま先に引っ掛けドアを開ける。
「あなたは出て行ってくださいね!拓!陸に朔!ごめんね!ご飯出しておいたから後でゆっくり食べて!」
―バタン!
「…はい、分かりました」
普通、起きたてに不審者に会ったらこんなに呑気にしてられん。。さすが、このみさん。