116.二つのパン
カビ臭い室内を寂しげに光る豆電球が辺りを不気味に照らしている。物が乱雑に積まれ、天井の隅には白い糸を張り巡らせた巣があり、獲物が掛かるのを今か今かと待ってる巣の主である蜘蛛がいた。
ここは光が届かない地下であるから、この豆電球が唯一の光源だ。こんな場所でも電気通ってるんだなと微かに揺れるそれを見ていた。
「怪我の具合はどうだ?」
ニュッと顔を覗き込んできたのは兄貴だった。
「死ぬほど痛ぇ」
「そうか。元気そうだな」
いや、人の話聞いてたか?死ぬほど痛ぇんだけど?
…全く兄貴は本気か冗談か分からないから困るな。でもあたしをここに運んでくれたのは兄貴だから頭があがんねぇな。
「あれからどれぐらい寝てた?」
「三日だな。心配した」
そう言ってぐしゃりとあたしの頭を撫でまわす兄貴。しつこいから切れてやったら、解放されたけどな。兄貴なりの愛情表現ってやつだろう。
「…ミルがあたしを刺すなんて」
あの優しいミルがだ。あいつらミルに何しやがった!あたしを殺せば呪いを解くだと?ふざけやがって!!そんな条件をミルが飲むはずがないんだ。だから絶対脅したに違いない。
「っつ!」
怒りから拳にグッと力が入る。だけどもその所為で負傷した場所に激痛が走り身もだえる羽目になった。
「大人しくしとらにゃ傷が開くさね」
蹲りながら声がした方に顔を向けると、薄汚れた服を着たジーさんが入り口の方に何やら袋を持って立っていた。
「…ぐ…医者か?」
「そうさね。まだ若いのに酷い傷こさえて何したのかのう」
とてもじゃないが清潔感もないこのジーさんは医者には見えない。ならば闇医者か。闇医者はこうやって人目を隠れて地下に住んでることが多いからな。
「うるせーよ」
「アル、お前を助けてくれた人だぞ」
「知るかよそんなもん!痛ぇんだよ!」
痛みからつい苛立ってしまう。取りあえず落ち着くまで声かけるなと言っておいた。
「何にせよ腰で良かったさね。手当さえできりゃ死ぬ場所じゃなしに」
ジーさんはそう言って袋からパンを取り出して咀嚼する。あたしらにももう一つの袋を差し出して、それを兄貴が受け取り中からパンを出してくれた。
「生憎だが金ならねぇよ」
「別に期待しとらんよ。ここに来るのは皆表には出られんやつばかりさね。あんたらのその髪じゃ行くとこなかろうに。だからここに来たんじゃろ」
古ぼけた眼鏡からジーさんが優しく微笑む。この髪を知っているなら割かし村から近い町だろう。
それ以上は何も言う気にならず貰ったパンを頬張った。
パサパサに乾いたパンは正直不味い。だけども文句は言わない。タダで貰ったもんだからな。
「…傷が治ったら美味いパン持ってきてやるよ」
「それは楽しみさね」
愉快そうに肩を揺らしながら笑うジーさんに、少しだけ元気貰った気がするな。
「傷はどれぐらいで塞がる?」
「そうさねぇ、一か月は安静にしとらにゃいかんのう」
「それは困る」
「そうは言うても刺されたのはお主の責任さね。ワシに言われても仕方あるまい」
パンを食べ終わったジーさんは汚い木戸棚を開けた。中は以外にも綺麗に整頓されており、そこから白い布のような物を取り出した。
「なんだそれ」
「包帯代わりさね。包帯は高くてかなわんから麻から作った安価なもんで我慢しい」
「別に文句はねぇけどよ」
血が滲んだ包帯もどきを外して水で濡らした清潔なタオルで綺麗にふき取り、そこに消毒用の液体をぶっかけられる。
「―――――っ!!!」
当然沁みるから声を殺して悲鳴を上げてジーさんを睨むと、気にした様子もなく液体をふき取り、慣れた手つきで包帯もどきを巻いていく。
「っ、沁みるなら言えよ!」
「ファッファッファッ。言ったら嫌がるじゃろ」
「当たり前だ!!」
痛みに耐えながら手当は済んだようで、ジーさんはフラリとまた出て行った。
不用心すぎないか?と兄貴に問えば、外に出て貧しい人で怪我人や病人を見に行ってるのだとか。あたしと違って善人だな。誰かを傷つけるんじゃなくて、誰かを救う人にあたしだってなりたかったさ。
半刻程経ってジーさんが帰って来た。出て行った時と同じように薄汚いままだったが、顔には殴られた跡がある。
「ジーさん。その顔どうしたんだよ」
「気にするこたぁないさね。いつもの事じゃからのう」
「いつも殴られてるのか?一体誰に?」
「お主には関係のないことじゃよ。安心せい。ここまでは来ん」
冷やしたタオルを顔に当てて、ファッファッと笑うジーさん。自分やられてんのに人の心配してんなよ。誰がどんな理由でジーさんを殴ってるのか、今後兄貴に探ってもらうか。
別にこのジーさんがどうなろうがあたしの知ったことじゃねぇけど、世話になってるからな。見過ごせねぇよ。
「ならいいけどよ」
「アル」
咎めるような兄貴の声にフンと顔を背ける。建前だっつうの。兄貴なら気づけよな。
☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆
「どうやらここら辺を取り締まる奴らにやられているようだな。浮浪者にも施しをしているのが気に入らないそうだ」
「は、とことんお人好しなジーさんだな」
ジーさんが出掛けたタイミングを見計らい、何日か兄貴に後を付けさせて周辺の奴らにも聞き込みをしてもらった。にしても施しをしてやれる程、裕福にはとても見えねぇけどと汚く狭いこの部屋を見まわした。
「もしかして手を出すつもりか?」
「別に人助けするつもりはねぇよ。ただ、傷が塞がった時の身体慣らしに丁度いいだろ」
ニヤリと口の端を上げてそう告げると、兄貴は呆れたような視線をあたしに向けたが気付かない振りをした。
「あまり生き急ぐなよ」
その言葉に思わず兄貴を振り返る。だけども兄貴とは視線は合わないままで。あたしを見てるようで見てないその視線の先には、一体誰がいるのやら。
やれやれと溜息をついてから再び口の端を上げて兄貴に返事を返した。
「あたしの心配はいらねぇよ。それよりも兄貴自分の心配でもしたら?」
「俺は気にしなくてもいい」
「は?分かってねぇな。あたしもミルもダメになった時、誰が父さんの傍にいてやるんだよ」
そう言えば少しだけ目を見開く兄貴。はは、驚いたって顔だな。それとも何故そんな言い方をするのかとでも言いたいのかもな。…言わせてやんねぇけど。
「あたし達はもう駄目だ。そもそも生まれから間違ってたんだ」
「馬鹿な事を言うな」
「いいや、馬鹿なことじゃないね。一人じゃなきゃいけなかったんだよ。二人に分かれて生まれてきてしまった事が罪なんだ」
正確には「神子」として生まれるにはだ。二人になって半端に力を分けてしまった。あたしは強い力で、ミルは弱い力を持って。
「均等じゃない力は優劣を生む。あたしは優劣感を持ち、ミルは劣等感を感じる。意識はしてないけど無自覚にそれは浸透していくんだよ」
そうあたしは力が強い事にどこかで驕っていた。そしてミルも同じように力が弱い事への劣等感や罪悪感を感じていたんだ。
「あたしにしか出来ないって言ってミルを傷つけていることに気付かなかったんだ。そして同時にあたしもミルに対して妬ましいと思う感情も感じてたんだよ」
力がないからこそ、危険な目に合う事もなく家でぬくぬくと生きているミルにあたしは嫉妬してた。あたしだって本当はミルのように家でのんびりとしていたかったんだから。
でも呪いの進行は勢力を増すばかりで抑える事が出来なくなってきた。それもきっと力を二つに分けてしまったからだ。
「もし神子が初めから一人しか存在しなかったら、こんな感情を抱くこともなかったのにな」
変に分かれてしまったからそんな感情を抱き、お互いに消化できないものを抱えてしまうんだ。それをお互いぶちまけたところで解決なんてしない。募るのは負の感情ばかりだからな。
「あたしなんかが力を持っちゃいけなかったんだよ…」
そう、あたしなんかじゃなくてミルが持つべきだったんだ。そうすればこんな事にもならなかっただろう。あたしはいい子ちゃんにもなれねぇし、瘴気に打ち勝つことも出来ない。こんなんで力が強いとか笑えるよな。
「あたしとミルが最初から一人だったら強くて優しい神子になっただろうな。ミルの大好きな本物の神子様のような」
争いを生むことなく交渉にもっていけたかも知れねぇ。そうすれば誰も傷つくことなく、この呪いから解放されただろう。リーファンも死ぬことなく今も笑っていただろうな。
神様が居たら聞いてみたいもんだな。双子としてこの世に生まれてきた意味を。もしかしたら意味なんてないのかも知れねぇけどな。そんときゃ笑って殴ってやるよ。
「…父さんと母さんが聞いたら悲しむな」
兄貴は憂いを帯びた表情をしながら、あたしに水を手渡した。
「喉乾いているだろう」
「え、あ、あぁ。良く分かったな」
それに手を差し出して兄貴から水を手に取り、口に含む。スルスルっと喉の渇きを癒しながら、胃に向かって滑り台を滑るように落ちて行った。
「兄貴だからな」
そう言いながら兄貴はジーさんが置いていった袋から二種類のパンを取り出してあたしに見せた。
食べろって事か?と手を伸ばすと、スイっとパンが逃げていく。どうやら食べる為に出した訳じゃないようだ。
「この二つのパンの違いはなんだと思う」
「は?」
「このパンの違いだ」
突然の突拍子もない質問に気の抜けた声が出てしまった。冗談か?とも思ったが、兄貴の表情は居たって真面目である。そもそも兄貴は冗談なんか言わねぇけどな。
「あー…。質問の意図が良く分からねぇけど、違いって言われたら形や味だろうな」
兄貴の左手にあるパンは丸いシンプルなパンだ。中に何か入ってる事もなく、ただ焼いてあるだけの物だ。対して右の手にあるパンは細長く、中にはうっすらとジャムが塗ってある。どっちも食べたことあるけど、あたしはジャムパンのが好きだな。
欲を言えばジャムをもっと塗りたくったやつがいいけど。
「そうだ形や味が違う。それは人だって同じだ。姿や性格が違う」
「それがなんだって言うんだよ」
兄貴の言いたいことが分からなくてムスッとする。てかそのパン早くよこせよな。
「だけども元の材料はほぼ同じだろう?少し手を加えたから違うだけだ」
「あぁ、まぁそうだな」
「人もそうだ。元は同じただの人間。そこには優劣はなくてあるのはただの個性だ。だけど人はそこに優劣を見出してしまう。何故か分かるか?」
何だよ急に難しい話してきやがって。パンを目の前にして腹が減ってきたこともあり、イライラしてきた。だけど兄貴昔っから勉強とかこういう話の時は、答えるまでは好きに動くことを許してくれねぇんだよな。
普段温厚な癖に、こういう時は頑固で困る。
「知るかよそんなもん」
考えても分からねぇもんは分からねぇから、投げやりにそう返した。すると兄貴はジャムが塗られた方のパンをあたしにくれた。取りあえず答えたご褒美らしい。
「自分と違うからだ。人は自分にない物を羨んでしまう。だけど同じように他人も自分を羨んでる事には気づかずにだ」
「…つまり?」
「自分の良さにも気付けぬ人間が、他人を羨む資格はないってことだな」
兄貴はそう言いながらもう一個のパンにかぶりついた。
「自分の良さに気付けねぇからこそ他人を羨むんだろ」
「そうだ。だが自分をよく知っている人は他人を羨むことはない。個性と捉えることができるようになるからな」
頭がこんがらがって来た。でも持ってるパンが兄貴の食べてる普通のパンを羨んでるって考えたらなんだか笑えてきた。
「ははっ。なんか分かった気がするわ。あれだろ?ない物ねだりだな」
「そうだ。しかしどれだけ願っても手に入る事はない。それに焦がれる事がどんなに愚かなことか知れば、他人を評価はすれど、羨むことはない」
そんな兄貴の答えに肩を竦める素振りをする。
「そうやって考えられる人間がいたら、聖職者になってるだろうよ。ま、聖職者でもそこまで達観してる奴が何人存在するかってところだろうけどな」
ケラケラと笑ってパンをかじるとほんのりとブルスの味がした。今日はブルス味のジャムだったかとペロリと下唇を舐める。ジャムは偉大だよな。こんなにパサついたパンでも、多少はマシにさせてくれるんだからよ。
「それにさ、兄貴はもう少し欲持って生きても罰当たんねぇよ」
「俺は欲まみれだよ」
「ははっ!ならあたしは更に欲を持ってるから真っ黒になっちまうな」
兄貴程無欲な人間なんて見たことねぇよ。この話を和ませる為か、ようやく兄貴も冗談言えるようになったんだなって思ってたから、兄貴が呟いた言葉を拾う事が出来なかった。
「…俺は誰よりも欲張りだ。そう、誰よりも」
エルドラはそう小さく零して満足そうにパンを感触するアルを優しく見つめた。
アルティナが刺された後のお話。




