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【過去】 自殺志願


 その日に来たのはやや奥まった場所にある薄汚れた五階建ての小さなビルだ。

 ビルの大きさに見合わないやけに大きな看板が掲げられていた。

 暗くなったら中に入っている蛍光灯が点灯するタイプのプラスチック製の安っぽい看板。

 下のほうには休憩時間二時間で五千円と書かれていた。


「今日はここに入ろうよ」

 ミキがそういう。


 ボクの心臓は張り裂けそうなほどにドクンドクンと脈を打っている。

 こんなに緊張したのはいつ以来だろうか……


 大学入試とか、初めて会社に行った時以来の緊張だ。


 玄関ロビーに設置された自動ドアを二人でくぐる。

 床には赤いカーペットが敷かれていた。

 ロビーは薄暗く、なんとなく陰湿な雰囲気が漂っている。


 ロビーの入口から見て左側に、人一人がやっと入れる小さなカウンターが設置されていた。

 その中には背中が丸まった初老の男性がいる。

 髪はきっちり整髪料で固められ、黒っぽい服を着ていた。


「いらっしゃい」

 無機質な声でそういう。


 初老の男性からホテルを利用する際の簡単な料金説明を受ける。

 それを聞いて、

「二時間でお願いします」

 とボクはいい五千円札を渡した。

 

 ホテルを使用する時間は、ここへ入る前にミキと話し合っておいた。

 

 初老の男性はお金を受け取ると、大きな四角いキーホルダー付きの鍵を奥の棚から出してきた。

 僕らが使うことになる部屋の鍵だ。

 それを受け取る。

 鍵には部屋の番号が書かれていた。


「ごゆっくり」

 やる気のない声でそういわれた。


 部屋は二階だった。

 赤いカーペットが敷かれた若干薄暗い廊下を歩き、階段を上ったすぐの所に目的の部屋を見つける。

 部屋には鍵がかかっていたので、持っていた鍵を使った。


 中に入ると、入口から見て正面と左側が鏡張りのせまくて薄暗い部屋だった。

 少しだけ大きめベッドが右側にあり、歩けるスペースはせまい。

 奥まった所にシャワーを浴びるための部屋が見えた。


「どうする?」

 ミキががいう。


「どうするって……」

 ボクは返答に困った。


 ここにはいる前にミキと約束していたことがある。

 ホテルには入るだけで性行為はしないというものだ。

 スリルを楽しむためにここに入ったのだ。

「どうもしないよ」

 ボクがそう言うとミキは満足した表情になる。


 ボクは部屋をぐると見回すと、部屋のベッドに腰掛けた。

 ミキはボクの隣に腰掛ける。

 座っている場所の正面には鏡がある。

 制服ではない私服姿で足をきれいに揃えて座っているミキとボクが映っていた。


「ねえ、こういうホテルの中に入ったことある?」


「……ミキこそ中に入ったことあるの? こういうとこ」

 ボクはこういったホテルに入ったことはなかった。

 だが、正直にいってしまうと馬鹿にされるかも知れないと思い、質問を質問で返した。

 聞かれたことをごまかすためだ。


「なんか女の子にそういうこと聞くってどうなの?」

 少しムッとした表情になる。


「そっちが先に聞いてきたんじゃないか……」


 少しだけ気まずい空気になった。

 

 だが、その空気を打ち破るように、

「シたい?」

 とミキがいった。


 ボクの顔を見上げるようにしている。

 彼女の眼鏡越しの黒目がちの瞳にボクの顔が映った。


 いきなりの質問に驚いた。


「……」

 ボクはうつむいて何もいえなかった。

 ミキとそういう行為をしたくない……といえば嘘になる。


「ヤらせてあげないよ」


 そんなボクの考えていることを見抜いているのか、念を押すようにそう言った。

 ミキはもうボクの方を向いていない。

 正面の鏡に映る自分の姿を見ていた。


「わかっているよ」


 ここへ来たのは彼女と寝るためではない。

 ただ単に暇を潰すために来た。

 おふざけで怪しいホテルに入ったのだ。


「もしも……もしもの話だけど」


「なに?」


「あたしがヤらせてあげるっていったら、アスカは何をくれるの?」


「何……っていわれても」

 返答に困ってしまう質問だ。


「お金? プレゼント? それとも……」

 彼女の言葉をさえぎるように、

「ボクには何もないよ」

 と、うつむいてそういった。


「う~ん、じゃあね。命をくれたらヤらせてあげるっていったらどうする?」


「ミキにだったらボクの命くらい、いつでもあげるよ」

 本心から出た言葉だ。

 本心から出た言葉だが――自分自身そのような言葉が出たことに驚く。

 ボクはそれ程、ミキに依存しているのか。

 いや、自分は自分の命が価値のないものだとわかっているから、そういったのだと考えた。


「死んでもいいからヤりたいんだ」

 顔は笑っていたが、感情のこもらない目をしていた。


「いや、そういう意味じゃない」


「じゃ、なに?」


「…………」

 ボクは何もいえなかった。


「死にたいの? なんなら、あたしがあなたのこと殺してあげようか?」

 とミキいわれた瞬間、ボクの頭の中で何かが弾けた気がした。

 

 神からやっとボクに救いの手が差し伸べられた。

 冗談抜きでそう思った。

 自分はもしかしたら、目の前の少女に殺されるために生まれてきたのかもしれない。

 きっと今まで生きてきた二十九年間は、この時、この瞬間のためにあったのだろうと感じさせられた。


 自分は意味のある死が欲しかったのだと思った。

 人に背中を押してもらえてはじめて気づくことができた。



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