考察と決意(直)
# 三月二十七日(火)15:34 #
頭が真っ白になった。
あれは智だ。間違えようがない。行動が爽やか一直線。むしろ爽やかさからできているんじゃないか、というどこかの下心・のみ太くんのような男だ。イケメン爆ぜろ。いや、今は切実にどこかに行ってほしい。
こちらに向かってきている理由も分からない。この姿が俺だって知っている訳はないし、司のことだって解るわけがない。なのに、明らかに目が合ってからこちらに歩いてきている。
足しか映ってないけど、智がもう目の前にいることが分かった。
何を言うつもりだろう。
推測することもできない思考はただ空回りを続けて脳と心を消耗させる。
「お姉さん、皆心配してるよ」
聞こえたのは、智の声だった。
間違いない。……と、思う。
お姉さん。
その単語が、事実を曖昧にする。
「え……?」
顔を上げると、苦笑する智の顔が映った。間違いなく智であり、彼は間違いなく俺を見ている。俺に向けられた言葉は、間違っていたのに間違っていなかった。
「手紙置いてどこか行っちゃうし、携帯も持たないなんて心配するに決まってるでしょ?」
俺の困惑をどう勘違いしたのか、智はそんなことを言った。
「……家事、辛かったなら言って下さい。料理はお姉さん程はできませんが、一応一通りはできます」
何を言っているのか、理解できなかった。
何を見て、何を思い、そんなことを言ったのか、全く理解できなかった。
反応できずにいる俺を余所に、智は司たちの方に向き直る。
「あ、挨拶が遅れました。俺、白水智って言います」
言って頭を下げる。
言った。自分で智だと、彼は宣言した。
「あ、えっと、赤生司です」
「母です。直ちゃんとは?」
「あ、弟です。……同い年なんですけどね」
「え? じゃあ、来年度から高校生?」
「はい。鳳雛です」
二言三言言葉を交わし、智は待たせていた二人のもとに戻って行った。
「じゃあ、皆待ってるからね、お姉さん」
そんな捨て台詞と共に。
「……」
「……」
司と司のお母さん、二人に視線を向けられているのが解る。
解るけれど、それを受け止めることができなかった。
きっと、疑われたことだろう。
もう何を言っても信じてもらえないかもしれない。
寄生虫だって思われただろうか。
何を言えば誤解が解ける?
何を言えば許してもらえる?
何を言えば――
「直ちゃん」
「っ」
抱きしめられた。そこで初めて、自分が震えているのが解った。
震えるな。動揺するな。
騙したことが露見する恐怖だと思われる。
勘違いされる。誤解される。
駄目だ。
駄目だ、ダメだダメだダメだ。
「大丈夫。貴方のことを疑ったりしないわ」
「ぁ……」
力を込められ、体がより密着する。人の温もり、温かさが、俺の何かを和らげてくれるようだった。
「直」
司が呼ぶ声がする。抱きしめられているから見えないけれど、恐らく司は呆れたような表情をしているだろう。声は変わっても、声質は変わっていない。
「顔面蒼白なお前見たら、誰も嘘吐いてるなんて思わないって」
「そう、なのか……?」
そんなに顔に出ていただろうか。
「ああ。それとも何か? 直のことを信じる人間だって、信じてくれないのか?」
「ち、違っ……」
それは違う。断言できる。
信じてくれる人たちだって思うからこそ、騙したって疑われるのが嫌だった。
「違うよ……」
「なら良かった」
そう言って、司のお母さんは俺を解放した。いや、解放という表現は適切じゃない。離されてしまったことを寂しく思っている自分がいた。
「甘いもの食べて、一息いれましょう。話はそれからでもいいわ」
「……はい」
司のお母さんが席に座り直すと、丁度よく先程のウェイターがティーセットを運んでくる。もしタイミングを計っていたのだとしたら、悪いことをしてしまった。
謝るべきかウェイターの顔を窺うように見上げると、目を逸らされてしまった。
思えば、ここはテラスだ。こんな目立つ所でお店の評判を悪くするようなことをしてしまったのだから、彼が怒るのも無理はない。
「おい直。ウェイターさんに色仕掛けをするな」
司の言葉は意味が解らなかった。
そんなことをした覚えはない。となると、これは司の好きな「やるなよやるなよ」と言っておいてその実「絶対やれよ」という意味だという伝統芸だろうか。
色仕掛けをしてでも謝っておけ、ということだろう。
色仕掛け。
……む、胸元を開けばいいのだろうか。
「って、何で脱ごうとしてるんだよ!? やめろ馬鹿!」
違ったらしい。
考えてみれば司の方が胸は大きいし顔も可愛いのだから、俺では力不足なのは当たり前だ。
そして気づけば、ウェイターは店内に戻って行ってしまっていた。
「ごめん……」
「い、いや……か、母さんが抱きしめてたから暑くなったんだろ。ごめんな、こんな親で」
「親に向かってこんな、とはなんです」
言葉と行為だけ見れば、親を非難し、非難された親が折檻している場面だ。
しかし、二人の表情は明るい。気が置けない者同士の会話ならではだと、誰の目にも明らかだ。それが、本当に凄いと思う。
「いや……羨ましいよ。それに、嬉しかったです」
心からそう思う。
頼れる人がいて、支えてくれる人がいる。受け入れてくれて、受け入れられる人がいる。
羨ましいくせに、人にそうできない自分が情けない。
「直ちゃん……いつでも私の胸に飛び込んできていいのよ」
そう言う司の母さんの微笑は聖母のようで、そう言ってくれるだけで、俺は救われる。
「……ありがとうございます」
何か周囲がざわついた気がしたけれど、どうでもいい。
できるだけの笑顔で言葉を紡ぐことしか、この気持ちを伝えることはできないと思った。
「な、直! パンケーキ冷めちゃうから! 早く食べないとっ」
司は顔を赤くして焦っていた。
その様子は食べ物をつつくリスのようで、とても可愛い。撫でたくなる衝動に駆られるけれど、ここからでは手が届かないのが残念だ。
「ああ、そうだな」
紅茶とセットになっていたのは、フランス風のパンケーキだった。日本でも一般的なアメリカ風と違いホットケーキを薄く焼いたようなもので、言ってしまえばクレープだ。果物やクリームを挟む他、ベーコンやチーズ、ソテーした野菜を挟んだりもする。このお店で出てきたものはホイップクリームとオレンジバターがかけられているスイーツだった。
今度舞に作ってあげよう、と考えて落ち込みかけた心をなんとか持ちこたえられたのは、また落ち込んだ表情をしては、司たちに申し訳ないと思えたからだ。
パンケーキの甘さは脳と心の疲れを癒し、紅茶の香りは緊張で凝り固まっていた心を解きほぐしてくれるようだった。
赤の映える白のティーカップを、同様に白が基調で金のラインで蔓のような模様のあしらわれたソーサーに置き、
「昨日は確かにお兄さんって、呼んでました」
俺はそう切り出した。
今日の朝、本当に智と会わなかったのか、見られた可能性はないか。記憶を辿りながら説明するための言葉を探していたが、二人にはその言葉だけで十分のようだった。
「可能性としては、記憶の改竄かな」
そう言ったのは司。改竄。それは文章や記録などの字句を書き直す、という意味だ。そんな馬鹿な、と思ったが、自分の状態がまず非常識であり常識を語る権利が無いことに気付いて反論の言葉を噤んだ。
其れより何より、司の言葉だ。感嘆こそすれ、疑ってかかる必要はない。
「成る程……その発想は無かった」
「いや……と、とある資料には稀にあるんだよ」
バツが悪そうに司は言ったが、博識を誇るべきであり卑屈になる必要は微塵も無い。女体化に伴う不都合を解消するための超常現象。先に調べた際にはその女体化の現象のみに注目していて、その結果が齎す周囲への影響にまで考えが及ばなかった。俺は本当に至らない。
「でも、もしそうならどうして私たちには司が男の子だったって記憶があるのかしら」
司のお母さんの言葉はもっともだった。
司の家族には記憶があり、俺の家族には記憶がない。
司の家族と、俺の家族の違い。
司のお母さんと、智の違い。
思えば、決定的な違いがそこにはある。
「俺と智は、本当の兄弟ではありません」
「……?」
司のお母さんは驚きを隠せない表情を見せる。
そこで俺は、家の事情……今の父親である健さんが、俺の母親である亜紀の三度目の再婚相手であり、智が健さんの連れ子であることを掻い摘んで話した。
つまり、智と俺には、血の繋がりがないということだ。
「確かに、違いと言う点では明確ね」
司のお母さんの言葉に、俺は頷いた。
「司。あんたは誰か友達に連絡とって聞いてみなさい。できれば、あんたと直ちゃん知ってる子ね」
司は頷いて携帯を取り出す。一方で司のお母さんも携帯に耳を当て、誰かに電話を掛けているようだった。
二人の会話の一端とその表情が、全てを物語っていた。
「今、お父さんに連絡してみたわ。二人の戸籍についてね」
言葉の続きを司とともに待つ。俺はそれなりに会話が聞こえていたため内容を察することはできたが、心のどこかで否定したかったのか、何も言わずに耳を傾けていた。
「お父さんの知り合いに調べてもらったら、二人とも、最初から女の子だったって」
俺と司に大きな反応は無かった。俺は元より司も覚悟していたのだろう。それはつまり、司も同様の結果を得ていることを暗に示している。
「こっちも。何で同性と付き合わなきゃいけないのよバカ、って笑われた。ははっ」
そう乾いた笑いを零す司には、それまでの元気がない。恐らく、連絡先は元カノだ。彼女と付き合っていた、という過去も無くなっていたらしい。
「決まりね」
司のお母さんの呟きは、どこか諦めたような声色をしていた。
まさしく超常現象だ。ここまでくれば、もう呆れを通り越して感心する他ないだろう。何故よりによってそのような貴重な体験が息子の女体化なのか。
真面目に考えるには、馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない。
「つまり、直ちゃんのお母さんと妹さんにはちゃんと説明しなきゃいけないわね」
しかし司のお母さんは、自分たちのことではなく俺のことを考えてくれていた。
感服するばかりだが、本当に感謝するならば俺はこの人たちに報いなければならない。
「……ちゃんと帰って、話します」
「俺も行こうか?」
司の提案には首を横に振って応える。これだけ好意に甘えて迷惑をかけて、その上家庭のごたごたに巻き込むわけにはいかない。
「直ちゃん」
そっと手を握られ、俺は司のお母さんを見た。そこには、慈愛に満ちた微笑が湛えられている。
「家で言ったこと、忘れないでね。どんな結果でも、司に連絡しなさい」
俺は頷いた。
色々な感情が胸に込み上げて、ただ頷くことしかできなかった。
絶対に連絡します。そう意思を込めて。
それでも、この家族の中に俺が入ることはないだろう。特待生の項目に、入寮費の低減が含まれていた筈だ。妹を一人残すのは心配だが、拒絶されるなら仕方ない。
「そういえばさ」
司が不意に気付いたように呟いた。
「直、女に触れるようになったんだな」
「あ……」
別のことに囚われていて失念していた。しかし、気付いても吐き気は無い。
依然として、司のお母さんの手は、俺の手を包み込んでくれている。
「大丈夫……みたいだ」
あれは中学生の頃。女性に触れないということが妙な誤解を呼んだことがあった。触れなかったのは女性に触れると吐き気を催してしまうことが原因だが、それを司以外に言ったことは無い。
そうなってしまった元凶を、説明したくなかったからだ。
汚らしい男という性別である自分が女性に触れるということが俺はどうしても許せず、それが奇妙な体質として現れてしまっていた。だから、女性の身体になったためにその嫌悪感や罪悪感が無くなった……のだろうか。
理由をつけるならばそんなところだろうが、それはこの現象を都合よく解釈したに過ぎない。
司はそんな体質ではないのだから、理由は別にあるのだろう。
「良かったな」
見れば、司は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
見惚れてしまう程可愛いその笑顔は、見る者の心も嬉しさと楽しさを齎すような魔力があった。
司の言う通り、分からない原因の考察などではなくこの好転を喜ぶべきだろう。
「うん」
この身体も悪いことばかりではない。
俺が笑うと司の笑顔が消えて目を逸らされてしまったが、その時は確かにそう思えた気がした。
# 三月二十七日(火)17:07 #
ランニングウェアを赤生家に取りに行った後、夕食にも誘われたが丁重に辞退して家路についた。
話が上手くまとまれば白水家の夕食を作らなければならないという理由もあったが、それ以上に赤生家の温かさに浸かってしまうと抜け出せなくなりそうで、怖かった。
事実、白水家の玄関のドアノブは、予想以上に重かった。
「ただい、ま……」
お母さんは夜勤のはずだから、居るとすれば多くて三人。一人もいない可能性もあったが、玄関に並んだ靴はお母さんと舞、それと智のもの。
血の繋がっている人間には記憶があるという仮説が正しいならば、説明するのはお母さんと舞だけでいい。
受け入れてくれるか分からないが、逃げるわけにはいかない。
そう決意して玄関を上がり、TVの声が漏れているリビングに向かった。
心臓が痛い。
精神的なものもあるが、動悸が止まらないせいだ。
「……ただいま」
リビングのドアを開くと、そこにはお母さんと舞、そしてキッチンには智がいた。
「「……」」
お母さんと舞の視線は、仮説が正しいものだったことを教えた。
「おかえり、お姉さん」
「ただいま」
やはり、智の記憶は俺が生来の女となっている……のだろうか。取り敢えず、不安要素である彼には退出してもらうことにする。
「智、ごめん。ちょっと、外してもらえるかな……」
この一軒家は白水家、つまり健と智の住んでいた家だ。加わった形である俺に邪魔者扱いされることを不快に思うかもしれない。
そんな俺の不安は杞憂だったのか、
「わかった」
と嫌な顔一つせずに承諾してくれた。
こいつも男だから好きにはなれないが、その器の大きさには素直に感じ入る。
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
ほんの一瞬だったが、視線を逸らされた気がする。彼の代名詞とも言える爽やかな笑顔もどこかぎこちない。どうやらこの顔は笑顔を作ると人を不愉快にしてしまうのかもしれない。
背中越しに聞こえたドアの閉じる音。
「……」
一度の深呼吸で改めて心を引き締める。
これからが本番だ。
テーブルを囲むように配置されたソファーに座る、お母さんと舞の元へ向かう。
「……」
「……」
二人は動揺した面持ちで俺を見つめていた。
きっと俺も、それと同じかそれ以上の顔をしているだろう。だが、もう引けない。
引く気もない。
「俺、直です」
動悸を訴える心臓の上、ブラウスの胸元を掴んで何とか堪える。
「朝起きたら、こうなってしまいました」
それ以上の説明ができるはずもない。後は、二人からの問いに応える形で話をまとめるしかない。
これからが正念場だ。
二人は互いに顔を見合わせ、やがてこちらに向き直り、お母さんは笑顔を浮かべ、舞は溜息を零した。
そして、
「直、綺麗ね~」
「ほんとにお姉ちゃんになったんだ……」
思い思いの感想を口にした。
「え、えっと……」
予想と違い二人の反応が淡泊過ぎて、俺は上手く対応することができなかった。
# # #
今朝俺の姿がなかったことで、ちょっとした家族会議が開かれたらしい。
議題は家事の分担。
俺が家を飛び出す理由が家事の負担だと予想されたのならそれはそれで少し悲しくなってしまうが、思えば昼に会った智もそんなことを言っていた記憶がある。
そこで、お母さんと舞は健さんと智との会話の祖語に気付いたらしい。
その祖語の正体が、俺を男として認識しているか女として認識しているかというものだと、お母さんと舞は結論付けた。そのきっかけが昨夜、舞に俺が言った言葉だというのだから世の中何が繋がるのか分からない。
予測していたからこそ、二人の反応は薄かったのだという。
「ショックはショックだけどね~。これからちょっとは母親らしいことできるかな、って実は嬉しかったり……ごめんね」
そう言ってお母さんは少し申し訳なさそうに笑った。
俺が大変なのに、それを喜んでしまう自分が情けない、だそうだ。
「私もショックだけど……。……諦めがつくって思えば、むしろ綺麗なお姉ちゃんができたって喜べるよ! いなくなっちゃうほうが全然嫌だもん」
舞が浮かべたその笑顔のどこにも嘘は無い。
受け入れてくれた。
「ありがとう……」
そのことを心の底から嬉しく思う。
それは本当だ。
だけど。
「ど、どうしたの? おに……お姉ちゃん」
だけど、それと同じくらい自己嫌悪に駆られる。
どうして俺は、自分のことばかり考えてこの人たちを……大切な家族のことを信じることができなかったんだろう。
傷つくことを恐れるばかりで、自分が傷つけることを完全に棚上げして、見ないふりをしていた。
皆俺のことを考えてくれたのに、俺自身は結局、自分のことばかりだ。
なんて醜い。
醜悪で、卑劣で、矮小で……最低だ。
「……私もお母さんも、おね……。……直のこと大好きなんだから。それは女の子になっても変わらないよ。だから泣かないで」
舞は差し伸べようとした手を止めた。
妹は俺の体質を知っている。だから気を使ってくれた。
だから俺は、舞の身体を抱きしめた。
うまく言葉になりそうになかったから、行動で示そうと思った。
もう、大丈夫だよ。
心配させて、本当にごめん。
「大丈夫、なの……?」
俺は舞の肩に顔を埋めるように頷いた。
「良かった。……嬉しい。何年ぶりかな……直が触ってくれたの」
舞の腕が俺の背中に回されたのが感触で分かった。
そして、彼女が泣いていることも。
俺は、これからのことを考えようと思った。
受け入れてくれた人たち。
信じて、後押ししてくれた人たち。
心配してくれた人たち。
自分の為じゃない、誰かのためにできることは何か、考えようと思った。
直のシリアス(たぶん)終了です!コメディがやりたかったはずなのに、どうしてこうなった!