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散りばめられた火種。(悠)

  ∽ 四月十六日(月)18:50 ∽



 今日の夕食はすき焼きだ。私は生卵を使わない派。一度父の赴任先(海外)で卵かけごはんをして、腹痛で死にかけたのがトラウマになっているせいだ。

 しかし、何度か白水智の弁当を見たけど、あれが白水直の手作りだとは思わなかった。彼女に作らせたら、家庭のすき焼きも料亭の一品のように様変わりするのだろうか。少なくとも関東風・関西風のバリエーションはあるかもしれない。

 席順的に調理実習が同じ班にならなそうなのが少しだけ惜しい気がする。


「お兄、友達できた?」

「なんだ藪から棒に」


 二個目の卵を掻き混ぜている遥は何のことは無い風に振ってきたが、夕飯の団欒に挙げるような話題ではない。

 できるわけがないからだ。

 私が望んでいないものが私の意思に反して創られるわけがない。人間強度が下がるから、なんてことを言うつもりはないが、友人をつくるメリットが私には皆無だ。

 まず一人で困らない。

 そして交際費が掛からない。

 以上。


「あー……まだ彼方先輩一人なんだ」


 あれを友達としてカウントすることに躊躇いが無いと言えば嘘になる。


「あいつからすれば俺は友達未満だろ」

「あはは。すごいみたいだねー」


 あいつは既にクラスから飛び出し、他のクラスにさえも交友の輪を広げようとしている。そのくせ時折纏わりついて、白水直のATフィールドが硬すぎる、とか愚痴を溢す。全く理解できない。

 ところで、何で遥はさも知っているかのように話すんだろうか。


「まだあいつと連絡とってるのか……?」

「え? うん」


 ……あのオカマ野郎。


「部活動に誘われたりしないの?」


 母さんがそう聞いてきたことに、私は驚きで一瞬言葉に詰まってしまった。御爺さんの代で幕を降ろしたとはいえ、うちには柔道の道場を営んでいた名残が其処彼処に現存している。それは暗に道場への未練であり、私がこの身体になったことで道場の再開を母がいつ言い出すのかと気が気ではなかった。

 しかし、今の発言はその調子も含め、部活をするなら好きにしろ、という意味にとれる。

 それは面倒事が嫌いで平穏を愛する私にとって願ったり叶ったりなのだけれど、その真意が分からず、分からないからこそ余計に恐ろしい。


「……いや、特に考えてないよ」


 言った後でこの発言は母にとって有利なのではと後悔したが、母がそのことについてそれ以上追及してくることはなかった。


「そうなんだ。吹奏楽とか合唱部にでも入るのかと思った」

「そうなのか?」


 意外に思い、気付けば私は遥に聞き返していた。遥は音楽センスのある男性が好みなのだろうか。だとしたら残念だ。


「だってお兄、ピアノ上手だし」


 成る程、と納得する一方、それは間違いだ、と内心で否定する。過大評価は誰も得しないのだから、訂正しておくに限る。


「ヘタだよ。先生からも才能ないって言われたしね」

「そうかなぁ」


 思い出すだけで腹が立つけれど、今でもそう言った音楽教室の先生の顔と声がはっきりと脳裏に焼き付いている。

 ――君の音には、心がない。

 あるかそんなもん。

 柔道の才能が無いから宛がわれた習い事。そこへ行っても、私は否定され続けた。そして私は逃げた。カッコつけても仕方ないから認めるが、完全に逃げる選択肢一択だった。人はモンスター程私に興味はないようで、特に回り込まれることなく逃げおおせて今に至る。

 思えば、遥との距離が開き始めたのもそのころからだ。ダメ人間の姉と、完璧超人の妹。


「私は好きだったよ。お姉のピアノ」

「……そっか」


 そんなことを言ってくれた遥だったが、家で練習している時不機嫌そうな表情で睨んでいたのは気のせいだったのだろうか。



  ∽ 四月十七日(火)07:53 ∽



 朝の登校は苦痛だ。

 むさ苦しい通学電車。心臓破りの上り坂。そして、一番の苦痛が他人の視線だ。

 鬱陶しいと思いつい睨んでしまったこともあったが、その時はむしろ喜ぶような旨の言葉を周囲と交わしていた。解消するつもりが逆効果だったこともあり、今は完全に無視することに決めている。見込みがないと思えば早々に切り捨てるだろう。


「あ、おはよう黒酒!」

「……朝から元気だな」


 昇降口で声をかけてきたのは、ばったり遇ってしまった青海だ。こいつも結構注目を浴びているのに、どうしてここまで溌剌としていられるのか不思議で仕方ない。Mなのだろう。

 教室に行くまでに、幾度となく青海は他人と挨拶を交わしていた。実際にその光景を見てみると、感心を通り越して感嘆した。

 それは兎も角、だ。


「なんで横を歩く」

「え? いいじゃん。行くとこ一緒なんだし」

「……お前の横にいると余計に目立って嫌なんだ」


 こいつには体裁を取り繕っても仕方ないので、というかそうしないと伝わらなそうなので本音を言うことにしている。ただ、


「えー? 黒酒が目立ってんのはいつものことじゃん。かまへんかまへん」


 伝わってもスルーされることも間々ある。


「俺が構うんだよ。離れろ」

「口が悪いなぁ。遥ちゃんに言いつけちゃうゾ☆」

「そうか。ならその口と指を使えない様にしておこう」

「無慈悲過ぎる!?」


 人を脅迫するような外道にかける程、私は慈悲を多く持ち合わせていない。


「黒酒、遥ちゃん好き過ぎ」

「別に好きなわけじゃない」


 意外と上手くいっている現状、以前のようにギスギスしたいとは思わないだけだ。

 言って駄目なら諦める。余計な体力は使いたくなかったが、離れないならこちらが離れればいいだけのことだ。


「おうふ。ちょ、ほんと速っ。そんなに直ちゃんが見たいか」


 あのバカは風評被害という言葉を知らないのだろうか。周囲のざわつきが聞こえたが、ここで慌てて否定すると逆効果になることは解っている。


「ああ。お前の顔よりはな」

「それもそうか」


 足早に到着した教室。私の席は後ろから三列目なので、後ろのドアから入る。特に意識する訳でもないのに自然と目が窓際で外を眺めている女子、白水直に向かってしまう。何故かは分からないが、このあたりがこのクラスで彼女が一目置かれている理由なのかもしれない。


「おはようございます」

「……おはよう」


 綺麗系と言えば、私の右隣に座る及淵もその一人だろう。

 及淵(しきぶち)杏奈(あんな)

 お淑やかが人の皮を被ったような振舞いが常で、昨日のような騒動の際も驚いて表情を変えることはあっても口元に手を当ててて隠したり、声を上げたりはしない。

 夏、縁側でうちわ片手に浴衣で風鈴の音色に耳を傾けながら佇む、そんな風景が似合いそうな女子だ。内面がその通りなのかは勿論知らないが。

 礼儀正しく折り目正しく、礼節を持って人と接し、異性と必要以上に接触しない。そんな印象だったのだが、


「……」


 何故か、見られている。ガン見である。

 実を言えば昨日の時点で視線は感じていたが、隣の席に座る人物に興味を抱くのは不自然ではないと捨て置いたのだが、こうなってくると無視するわけにもいかない。

 正直、鬱陶しい。


「……何か?」

「黒酒、悠さん、ですよね?」


 自己紹介しただろう、と喉元まで込み上げた言葉を辛うじて飲み下す。他人に興味がない人間なら人の名前なんて覚えられないだろうし、人を覚えるのが苦手という人間だっているだろう。

 余計な波風は立たせないに限る。


「そうですが、何か?」

「二年前の……いえ、失礼しました。忘れてください」


 言いかけて止めるな。

 そう思ったが、追及する訳にもいかない。鳳雛にも同中の人間が数人いるが、青海の話では男としての青海や私の記憶が彼ら彼女らにはあるらしい。

 青海の集めた情報に依れば、彼ら彼女らの知る黒酒悠は文武両道を地で行く人間だったらしい。柔道で全中5位、定期考査の上位に常に名を残す成績を修めていたというのだから驚きである。部活動に精を出してもその程度しか成績が落ちないのだから、この身体のスペックは相当なものらしい。それが本当の記憶であれば、の話だが。

 それと、無愛想そうに見えて優しい性格で女子には人気があったのだという。

 いつの時代、どこ物語の主人公だ、と青海に突っ込んでしまったのは不可抗力だ。

 そんな印象を持たされる身にもなって欲しい。

 そんなわけで、私がもつ黒酒悠の記憶と他人がもつ黒酒悠の行動は一致するとは限らないのだから、彼女が言いかけた二年前――過去について、私が追及することはできない。

 昨日と同じ表情で教壇に身体を向ける及淵さん。

 彼女の方も言いかけたのはこちらからの追及を望んでいる訳ではなく、話題にする意味がないと自己完結したらしい。

 それは好都合だ、と私も前へと向き直り、


「へぇ、及淵さんて悠と顔見知りだったの?」


 及淵さんの前に座る迎田が振り向いたのが視界の端に映った。

 迎田(こうだ)汐莉(しおり)

 私や青海と同じ、清萩中出身者。私の記憶では「黒酒さん(嘲笑混じり)」とか「あれ」とか「ねぇ」とかそういった呼び方をしていたが、今の彼女は呼び捨てで呼んでいる。気持ち悪い。

 ただ、記憶の中の私も友達以上ではなかったようで、ほとんど無反応でも少し冷たくなった、という程度の印象なのが救いだ。GJ、男の私。

 問題なのは、何故迎田が蒸し返すようなことをしたのか、ということだ。


「あ、ええと……」


 及淵さんも困っている。もしかしなくても、私のことを気にしているんだろう。正直、知らないところで話題にされるのはいい気分ではないが、席を外した方がいいかもしれない。

 そう思い立ち上がって若干スペースの広い左側へと体を向けると、青海と視線が合った。青海が頷いたので、心置きなく教室を出ていくことにした。

 他人の会話に聞き耳をたてることも褒められたことではないが、教室という閉鎖空間の中では会話が他人に聞かれることもある。不可抗力だ。


「ぎゃわんっ!」


 余計なことを考えながら歩いていたので、ドアに駆け込んできた赤生とぶつかってしまった。


「悪い」


 体格差でよろける赤生の腕を掴んで転ぶのを未然に防ぎ、


「ッ!?」


 身も凍るような殺気を感じて振り向く。

 視線がかち合ったのは、白水直。が、すぐに逸らされ、同時に殺気も消失した。母にも劣らぬ重圧。あの女、何か武術すらも会得しているのだろうか。完璧すぎるだろう。


「ありがと黒酒くん。あとごめんね?」

「ん、あ、ああ」


 掴んだままだった腕を離し、教室を出て自販機のある一階階段前へと向かった。

 行動として違和感はなくとも、トイレに向かう気にはなれなかった。



  ∽ ∽ ∽



 青海に聴取を任せたが、結局収穫はなかった。

 何故か。

 青海が赤生や白水直とのやりとりに夢中で聞くのを忘れていたらしい。青海らしい気もするが、こいつはこいつで賢しいところがあるから、私には言えない内容だったのかもしれない。本人の口から言わなければいけないこと、という可能性もある。

 考えても答えが見つかるわけもなく、二限目の授業に頭を切り替える。


「うっわ……」


 つい声が漏れてしまった。二限目、選択芸術科目。……音楽である。

 理系・文系の選択が無い一年次にはまず選択芸術科目で半分に分け、そこからさらに選択実技科目で半分に分ける。前者は音楽と美術、後者は柔道と合気道の選択だ。一年四組は音楽・合気道を選択した者が所属していることになる。

 音楽は習い事の嫌な記憶、美術は昔描いた絵をありとあらゆる人に馬鹿にされた記憶があり、結局どちらも選べなかった私は“どちらでも可”を選択した。

 どちらにせよ、やりたくないことには変わりない。どちらも不可にしたかった。


「はぁ……」


 授業なだけに、賞や将来を考えた厳しい指導などをしないことが唯一の救いだ。


「どした? なんか鬱?」


 気にかけているのかいないのか、そう声をかけてきた青海はテンションが高い。人と話している時は基本楽しそうにしているが、今は一段と笑顔が晴れやかでうんざりする。体調不良の日に日差しがきついようなものだ。


「お前は楽しそうだな」

「そりゃねー。だってほら次の授業って音楽っしょ? ギターとか弾いてみたいし」


 君の軽いノリにはぴったりだ。という皮肉も言う気が起きず、ただ相槌を打っておいた。

 と、そこで疑問。


「軽音にでも入ればいいじゃないか」


 関わらずとも聞こえてくる多くの誘いを断り、青海は自己紹介の宣言通り今でも帰宅部だ。精力的に活動せずとも、所属しておけば異なる交友関係が築けるだろうに。


「楽器買うお金ないしね」


 意外ともっともな理由だった。部室に行けば先輩の残していった物があるかもしれないし、ヴォーカルでもやればいいとも思ったが、そんなことは百も承知だろう。

 結局、そこまでしてやろうという気概はないだけの話だ。そうそう放課後ティータイムな青春が送れるとは限らないし、何をするのもしないもの本人の勝手。何でも強制でやらされることほど最悪な時間はない。


「まぁ、何でも気楽にやるのが一番だな」

「全中五位が言うことじゃないね」


 それは私じゃない。

 そう意思を込めて睨むと、青海は無邪気な笑顔を浮かべて誤魔化そうとする。暖簾に腕押し、糠に釘、だ。


「……やっぱ変」


 傍らから聞こえた声に振り向くと、迎田が怪訝そうな視線でこちらを見ていた。


「悠たち、いつからそんなに仲良くなったの?」


 ジャニーさんか、というツッコミが青海から聞こえたが、私も迎田も無視。


「別に仲良くないだろ」


 これで仲が良いということになったら、人類皆兄妹も目前だろう。骨肉の争いは万国共通だから、平和になるとは限らないが。


「ふぅん」


 なにかが気に入らなかったらしく、納得する素振りだけ見せて視線を逸らす。こちらから尋ねたところで「別に」やら「何でもない」とはぐらかされるだけだろう。過去の話をされても困るのも変わらない。

 よってこの話題は終了。

 気づけば、すぐに音楽室に向かわなければ遅刻してしまう時間になっていて、重い足取りで中央棟を挟んだ反対に位置する教室へと向かった。



  ∽ ∽ ∽



 放課後。

 掃除を終えて教室に戻ると、そこはクラス内のグループを的確に選り分けていた。

 同好の士。部活仲間。何となく馬の合った者。何となく一緒になり、分かれる理由もなくくっついたままの者。そして、私のように一人でいる者。

 ただ、世に言うスクールカーストのようなものは見受けられない。スクールカーストが教室内で築かれたピラミッドだとするなら、このクラスは宛ら霊園だろうか。墓の大きさに差異はあっても、皆平面上に存在する。その上、第三者の目の保養にすらなるのだから。

 厳密に言えば、或いは何かに所属している者からすればグループの序列はあるのかもしれないが、あったとしても味方も敵もない私には関係ない。敵のいる種類のぼっちとは違うのだ。

 だから、何か諍いがあっても巻き込まないでね。


「黒酒ー」


 スクール鞄に道具を詰め込んでいると、陽気な声に呼ばれて私は顔を上げた。

 乙鳥(つばくら)くん……だったか。有り余る元気が特徴……というか、動きを止めたら死んでしまうんじゃないか、という男子で、青海がバカをやってる奴と定義するなら彼はバカっぽい奴だ。そんな彼が、実に晴れやかな笑顔でこちらに近づいてくる。


「これからカラオケ行くんだけど、一緒に行かね!?」


 見れば、彼本来の席の周りには数人の男子の姿があった。

 私は自他ともに認める、一緒に居ても楽しくない人間だ。この一週間程でその事実に気付いているであろう彼が敢えて私を誘おうとした理由は分からない。分からないが、打算的な行動が取れそうにないこれまでの彼の性格を考えれば、自分の派閥を作る為にぼっちの人間を誘った、ということは無いだろう。もしかしたら、純粋にクラスに溶け込ませようとしてくれているのかもしれない。だとすれば、正直感服する。


「悪い。家の用事があってな。早く帰らなきゃいけないんだ」


 感服するが、承服する理由にはならない。

 このクラスという大多数の中の一人であれば人の目は拡散し、私一人の行動は有って無いようなものになる。しかし、少数で行動した場合、少数との不確定要素の多いやり取りを少数に監視されることになる。どこかにあるだろう、私の行動にある違和感に気付かれるかもしれない。

 そんな危険を冒す程のメリットがない。


「そっかー。んじゃ仕方ないわな。また今度遊び行こうぜ」


 にかっ、と笑う彼もまた、紛うことなき美少年である。日頃の言動や行動で三枚目のような印象を受けるが、過去に何かあったり、これから何かの壁にぶつかって成長したりする伸びしろと思えば立派にキャラクターではないだろうか。

 そして、教室に残る、二つの空きスペース。

 これから転校生がやってきたら、恐らくそれは主人公だろう。ギャルゲー、乙女ゲー的に。

 ……と青海のように第四の壁を破るような物の見方をしてみたけれど、何も得られないどころか負荷にすらなりそうなので思考を停止させる。

 考えてみれば、彼の(恐らく)純粋な行為に対して私は何も返していない。


「悪いな」


 それだけしか言えなかったけれど、


「おう!」


 と乙鳥は無邪気な笑顔を返してくれた。

 少し心が痛む。

 彼に少しでも打算的な面が見られるなら、拒絶することを躊躇いはしないのに。



  ∽ 四月十七日(火)18:34 ∽



 結果的に、吐いた嘘が現実になってしまった。因果応報、というやつだろうか。

 家に帰ると母さんの姿はなく、部屋で勉強をしているとメールを受信。研修だかなんだかで遅くなるため遥と二人で飯を食え、という内容だった。

 出前か外食か。

 迷った私は、何を血迷ったのか自炊する、という第三の選択を選んでしまった。

 原因は今日の昼に見た白水家の弁当。牛しぐれ煮だかなんだかが、すごく美味しそうだったからだ。なんだよしぐれ煮って。牛丼じゃないのかよ。

 そして、対抗心が湧いたわけでもないのに牛丼を作ろうと思い至ってしまったわけである。料理の経験が無いわけではない。作っておいて、遥を驚かせてやろうか、という思惑もなかったわけではない。

 材料を買いに行き、調理開始。

 そして後悔。


「……しょっぱい……」


 どうしようこれ。水ぶち込めば中和されるんだろうか。いや、煮詰めるから同じか。


「あーあ……」


 しょっぱい、肉追加、薄い、調味料追加、しょっぱい、玉ねぎ追加、薄い、調味料追加、しょっぱい……。これを繰り返し、目の前には鍋いっぱいの真っ黒な牛丼ができていた。

 ご飯を多めにすれば食べられないことはないだろうが、量が多すぎる。


「白水さんみたいにはいかないか……」


 本音を言ってしまうと、彼女の料理を食べたクラスメイトのように遥も喜んでくれるだろうか。そんなことを考えた私が甘かった。いや、しょっぱいのだが。


「……白水って誰?」

「は、遥!? か、帰ってたのか。おかえり」


 びっくりした。

 集中していたせいか、帰宅したことも近寄ってきたことも全く気付かなかった。

 それ以上に、遥の表情が怖い。既視感を覚えた気がして記憶を探ると、すぐに思い至る。

 白水直の目だ。昨日白水智に迫っていた時の、あの生気が感じられない眼差し。あれに似ていると思った。


「ねぇお兄……白水さんって誰……?」


 怖い。マジで怖い。一歩一歩近づいてくるが、その度に背中に冷たい寒気のようなものが走る。その歩幅に合わせて距離を空けたかったが、しかしコンロが端に有るので逃げ場はない。……逃げ場って。


「し、白水っていうのはクラスメイトの白水智って人のことだ」


 自分でもよくわからないが、何故か白水直のことは言ってはいけない気がした。全身全霊がそう告げていた。そして何故か、その名前が過ぎる度に流しに置かれている包丁に目が行ってしまう。どうしたというんだろうか。私も、遥も。


「へぇ……で、どうしてお兄はこんなことをしてるの……?」


 すっと遥の手が包丁に伸び、陰鬱な目が磨かれた刃に映りこむ。刃越しに見るのを止めていただきたい。


「そ、そいつの弁当にあった牛丼? がすごく美味しそうでな。作ってみようかなって思ったんだ。今日母さんいないし」


 嘘は言っていない。


「……ふぅん……」


 かた、と包丁が流しに戻され、


「なーんだ。お兄が珍しく料理なんかしてるから何かと思っちゃった。うわ。すっごい量。たくさん作ったねー」


 覗き込む遥の目はいつもの状態に戻っている。


「着替えてくる!」


 楽しそうに笑い、身を翻して部屋へ駆けて行く遥を見送り、その姿が見えなくなったのを確認して緊張が緩み、私はその場にへたり込んでしまった。


「……どうしよう、これ……」


 そして改めて突き付けられる失敗作。そして今更過ぎるが、昨日はすき焼きだったことに気付いた。似たような味付けのものを二日連続で大量に食べなければならないらしい。

 因果応報というにはあまりに酷い仕打ちだと思った。


次回――


「それって……男?」


「大っ嫌いだ!」


――扉の向こうで何かが起こる。

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