第1話
2
その日から、彼の人生は大きく動いた。
『泥棒』
そう書かれた用紙が靴箱に貼られてあった。
ご丁寧に、全面に糊を塗りたぐり、シワまで伸ばすと言う徹底ぶり。
中心部のみをごっそり剥がしとり、光流は教室へと向かった。
何もしていない。
良い意味でも、悪い意味でも、何もしていないのだ。
「クッ、……何で」
なぜ、そんなことをしないといけないのだろうか?
態々他人のモノを奪ってまで、欲する様なモノなのだろうか?
そんなモノは不要だ。
欲しいと思ったことすらない。
しかし、現実とは恐ろしいモノだ。
たった一日のことで、
たった一度の事で、
たった一枚のレッテルで、
その者の見方が大きく変わる。
見覚えの無い他人の財布の所為で、高井光流には『泥棒』と言うあだ名が付いた。
教室の扉を開けると、今までに感じたことの無い視線が光流に突き刺さってくる。
いくつものグループに分かれ、まるでワザとギリギリ聞こえるくらいの声で会話を始める。
内容は言うまでもないだろう。
視線が痛い。
途切れ途切れに聞こえてくる言葉が、一層不快感を際立たせる。
今更誤解を解くことは出来ない。
本人の思考は関係ないのだ。
ただ、江丸冷夏の財布が高井光流のカバンに入っていたと言う『事実』があれば、それでいいのだ。
犯人を見つけ、その者に対する話しや噂で盛り上がり、日々のストレスを発散させていく。
よくあるパターンだ。
それが学校生活を送る中での手っ取り早い発散方法なのだ。
「お、おはよう」
苦し紛れの一言だった。
反応はない。
当たり前、と言うより、今の今までクラスメイトに挨拶などしたことがあっただろうか? と光流は考えた。
返すことなら何回かはあった。
だが、こちらからと言うのはもはや記憶にはない。
(なに言ってんだろ、俺)
机は荒らされていなかった。
下駄箱同様にある程度の荒しは予想していたので、これは意外だった。
意外、と言うならもう一つ奇妙な件があった。
これ件に関して、教師が一切関与していないのだ。
クラスメイトからは泥棒扱い。だが、担任がその事について触れることはなかった。
知らない振りと言う訳ではない。
気がつかないと言うべきだろうか、知らされていないと言う感じではなく、まるで知ることが出来ないようにも思える。
そんな素振りが見て取れるのだ。
光流は教室を後にする。
一限目が始まるまではまだ十分以上の時間がある。
教室にいると息が詰まる。
教室を出る際にも、後ろから誰かが話す声が聞こえてくる。
決まって、自分のことについてだ。
(はぁ……)
ため息すら言葉に出ない。
意外にクラス意外には広まっていないのか、廊下ですれ違う生徒が光流の事を『泥棒』と言うレッテルが貼られた生徒として見てくる者はいなかった。
クラスだけと言うのも不思議な話しだ。
悪い噂はすぐに広まる。
泥棒を働いた、などと言う噂はすぐにでも学校全体に広まってもおかしくはない。
(知らない振りをしてるのか……?)
すれ違う生徒を目線を向けてみても、何ら日常と変わらない。
無理に視線を合わさないようにしていると言う素振りも見て取れない。
本当に知らない。
ただ単純にそうだけのようだった。
気が付けば、光流は屋上のドアの前にいた。
立ち入り禁止と書かれた紙がドアに貼られてあったが、光流はそれを無視して内側からかけられた鍵を開け、ドアを開いた。
スポットライトでも当てられたかの様な光に、光流は思わず目を萎めながら外へと出た。
部類的には快晴と呼ばれるであろう青空。
ドアから出ると同時に、水平線を目指して登り始めたばかりの太陽がこちらを見つめていた。
季節は10月と言えど、直射日光と言うモノは暑い。師走にでもなれば、恋しくもなるが、今はそうではなかった。
光流は東から昇ってくる太陽を避ける様に西側へと回り込み、壁に背を付けて座り込んだ。
同時にため息が漏れる。
「最悪だ」
心から出た言葉だった。
今まで人から注目を浴びると言う事がなかった所為か、普段慣れていない視線にいじめと分類される言動が合わさり、正直参っていた。
「俺が何したって言うんだよ」
頭を起こして視界に入ってくる空は気持ちが良いほど雲がない。
つい先日までは教室の自分の席が学校にいる中で一番落ち着く場所だったが、教室があの調子では、当分はこの場所が学校にいる間で最も落ち着く場所になりそうだった。
「あぁぁぁぁもう」
むしゃくしゃした気分だった。
ただ、目立つこともせず、普通に学校生活を送っていく。
それだけのハズだった。
地味と思う者もいるかもしれないが、それだけでよかったのだ。
なのに、なぜこうなってしまったのか。
自分のカバンに入っていた他人の財布。
光流自身、そんなモノを入れた覚えなど一切ない。
江丸冷夏と席が近いわけでもなく、接点など微塵もない。
ならば、思うことはただ一つ。
「誰かが入れたに決まってる」
タチの悪すぎる嫌がらせだ。
だが、光流自身、他人の恨みを買うような事は一切やった覚えはない。
何せ、他人と関わろうとしないのだから、不愉快にさせることなど無いに決まっているのだ。
クラスの行事にあっても普通に参加し、悪く目立つことも避けてきた。
「いったい誰がそんなことするんだよ」
見当がつかなかった。
だが、今更犯人が他にいると言った所で、誰が信じようか?
現に、江丸冷夏の財布が高井光流のカバンの中から出てきた瞬間をクラスの半数以上の人間が目撃しているのだ。
他に、証拠がない以上、その一瞬で犯人が確定してしまっている。
光流はあぐらを組むと、少し前傾気味な姿勢で
「でも、クラスにしか広まっていない感じだったよな」
ここまで来る時にすれ違った生徒達や教師のことを考えていた。
まず、クラスでは完全に泥棒扱いを受けているにも拘わらず、一歩教室を出てしまえば、光流自身のことを軽蔑な目で見てくる生徒は一人はいなかった。
ただ単に、出会った生徒が本当に知らないだけで、他には浸透していると言う可能性もない訳でもないが、登校してくる人数の一番多い時間帯に出会った生徒全員が知らないと言うのも些かおかしなことである。
そして、教師達が全く動こうとしないのも不思議で仕方がない。
担任を含め、生徒指導の教師が何らかの動きを見せるのが本来の姿と言っていいだろう。
そうなれば、多少の言い訳もできたのだが、こちらから『僕は泥棒をしたと言うことになっていますが本当は違います』なんてことを言いに行くのは何か抵抗があった。
「江丸が担任に言わなかったってだけなのか?」
その可能性もあるにはある。
江丸のことについて、それほど詳しく知っている訳ではなかったが、大人しめの性格で、教室でよく本を読んでいるイメージがあった。
クラスから外れている訳でもなく、図書委員としてクラスの前で話す姿も記憶の中に残っている。
「いや、なら他のヤツが言ってもおかしくない」
その現場を目撃していた者が、担任に報告。
そのまま生徒指導室へ呼び出されて事情聴取、と言うのが本来のセオリーだろう。
あの場には20人近いクラスメイトがいた。
そのクラスメイト全員が教師を含める部外者に通達しないと言うのがおかしい。
人間の心理学的にも、誰かの失敗を誰かに言わずにはいられない。
俗に『噂』と呼ばれるモノだ。
悪い噂ほど早く浸透し、逆に良い噂と言うモノは中々出回らない。
つまり、『高井光流と言う生徒が泥棒をした』と言う噂など一瞬にして出回ってしまうモノだ。
それが、3日たった今に至ってもクラスの外に浸透していない。
「何か変だよな」
前傾だった姿勢を崩し、壁に背中をあずける。
頭を反らし後頭部を壁につけて、今一度空を見上げていると、
「ふーん。何か変だってことは気づいてるのね」
突如声が聞こえた。
「!?」
辺りを見回すが、屋上には自分以外の姿は確認出来ない。
よっと、と言う声を共に、ふわりと風にタンポポのタネの様に頭上から一人の人物が舞い降りてきた。
高井光流がもたれていた壁の屋部分から飛び降りた人物は、ふわりと屋上に着地するなり前に降りていた髪を後ろへと払い流す。
唖然とする高井光流を他所に、屋根から飛び降りてきた少女は腰に手を当てながら
「あなたが高井光流ね?」
「あ、ああ」
頷くしかなかった。
少女は、この学校の制服を着ていた。
冬服の紺色のブラウスとスカート。特にこれといって際立った特徴のない制服だったが、スタンダードなところが良いと、以外に不満を漏らすような生徒は少ない。
黒色の肩まである髪だが、こめかみの上辺りから伸びている部分だけが他の髪よりも10センチほど長い。
凛とした顔立ちにキリッと細い眉。小さな鼻と小さな口。
その辺りは普通の女の子なのだが、
「……つ、翼?」
彼女の背中から翼が生えていた。
真っ白の純白の羽。
片翼だったが、白鳥の様に汚れなき羽は、それだけでこの少女が普通の人間でないことを証明させていた。
「率直に言うわ」
少女の姿に見とれていた光流など気にせず、彼女は腰に当てていた手の片方を前に出し、人差し指を突き立てる。
「あなたの世界線は乗っ取られたの。早くしないと、あなた消えちゃうわよ」




