中篇
遊牧の民は絶えず移動を繰り返し、同じ所には居続けません。その者の率いる部族もそうでした。荒れたる大地を行くほどに、人々の営みの煙がたなびき、彼等の住む家も見えてきました。大きな布を、組み上げた木の枠組に被せただけの粗末なテントばかりです。
彼等、遊牧の民は移動を繰り返すために、立派な家などいらないのだと、姫君はずいぶん後になって知ったのでした。
聞いたこともない異国の言葉で、彼等は話をしていました。姫君は従者たちとは離されて、ひとり、男の家へと連れてゆかれました。
「セテフ!」
少女が一人、この粗末な家から駆け出してきて、男に抱き付きました。どうやらこの男の妻のようでした。姫君の目の前であろうとも、まるで臆することもない二人なのです。
姫君のお話は、ここでひとつ、区切りがつきました。王様は、何時の間にかこのお話に引き込まれて、興味深く聞き入っておられました。
「……頬が染まるような光景でした。いえ……、私も、まだ見ぬ王様との日々を思ってしまったのです。きっと、彼等に負けぬほどの甘いひと時を、王様は私に下さるだろう……などと。」
異国から来たお妃様は、そう言って、お話の中と同じに頬を赤く染められたのでした。
お話はまだまだ続きます。
セテフと呼ばれたこの部族の長は、まだ年若く、その妻である少女は、さらに年端もいかぬ子供に見えるのでした。
セテフの妻は、ティティという名前でした。この少女は、姫君の国の言葉が全て判り、すらすらと話す事が出来るのです。
「こんにちわ。セテフに聞いたわ、イルハンから来たんですってね。しばらく家に泊めるから世話をしろって。なにかあれば言ってね、大事なお客さんだからきちんとお世話するわ。」
姫君はほっと胸を撫で下ろしました。言葉が通じる相手がいるという事は、こんなにも素晴らしい事だったのです。姫君とティティは、すぐに仲良くなりました。妹が一人、増えたかのように、姫はこの娘を可愛がり、娘も姫を実の姉のように慕いました。
姫君の要求は、ティティを通じてこの部族の長に伝えられました。ですから、生き残った従者の者達も、少しは気持ちを楽にする事が出来るようになりました。
夕方になり、太陽の神が西の空で力尽きる頃になると、決まって彼女の夫は二人の様子を見に来ます。今は、姫君が一緒に居るので、彼は他のテントに寝泊りしているのです。それも、ティティが伝えた姫の要望のひとつでした。
妃となった姫君は、王に告げます。
「私は、いくら妻ある身とは言え、見知らぬ男と寝食を共にする事は出来ないと思っておりました。王様にお目にかかるまでは、決して、疑いすらも退けねばならぬと誓っておりました。」
王様は力強く頷かれました。その覚悟を賞賛なされたのです。
「ティティは私の願いを、よくよくその夫に通してくれました。時には、この獰猛な男と言い争ってまで、私の思い通りにさせてくれたのです。私は、今も彼女に感謝が絶えません。」
姫君は、胸元を飾る豪華な首飾りに混ざり込んだ、素朴な皮紐の首飾りを、大事そうに手に取られました。その皮紐の先の小さな赤い石を、王様もお手に取られ、そしてお尋ねになりました。
「……これはその娘から贈られたものなのだな?」
お妃様はこくりと頷いて、お答えになります。
「はい、王様。彼女が、私を祝福して作ってくれたのです。例え、この宝玉の出所が、いかがわしい……例えば、あのセテフがどこかの村を襲って奪ってきたものであったとしても、私はこれを神聖なものとして、大切にしたいと思っております。」
王様はお答えになりました。
「うむ。大切にするが良い、その娘の心が込められておるならば。」
さて、この部族の者達は、本当に野蛮で獰猛なのでした。姫君の従者達はみな、ケダモノと同じだと言っておりました。彼等は決して、餓えて村々を襲うのではありません。彼等の持つ羊や馬が丸々と太り、食べ物も豊富にある時に限って、彼等は隊を組んで出掛けてゆくのです。
ある日の夕暮れ時もそうでした。略奪の旅から戻ったセテフは嬉々として、その妻に自慢話をしている様子でした。その時の身振り手振りで、姫君はそれを感じ取りました。彼がテントに戻った後に、姫君はティティに聞かされたのです。
「今日は他の部族と戦争になったそうよ。敵の男衆を皆殺しにして、女子供は売り飛ばしてやったって。ほら、良い馬がいたから、分け前で貰ったそうよ。」
ティティが指差す方向に、昨日までは居なかった白い馬が綱に結ばれているのが見えました。
「そしてこれは、私へのおみやげですって!」
そう言って、彼女は嬉しそうに、羽のついた頭飾りを見せました。
セテフは部族の中でもっとも強い男です。前の長が死んだ後に、対立する者全てを殺して長になったのでした。セテフは悪賢く、獰猛で、冷酷でした。砂漠の民は、一番強い者が王なのです。
ティティは、いかに夫が強く、多くの敵を殺したかを姫君に自慢しました。
「敵の部族は決して許さないわ。最後の一人まで、追い掛けて、殺してしまうまで、戦いは終わらないの。彼の従兄弟が長になった部族があったけど、それも彼が滅ぼしたのよ。
その部族の者が、うちの部族の者の妻になるはずだった女を横取りしたのが原因だったの。親同士で決められた、神聖なる誓いを破った者を、引き渡さなかったんだから、当然だわ。」
けれど、これを引き渡した時には、その二人は八つ裂きの目にあわされ、惨い死に方をさせられるのだと言うのです。
「どうしてそんな酷い……血のつながりのある、一族同然の者達ではないの。」
姫君は、殺された者達を憐れんで、ティティに言いました。
「なぜ? 結婚は、決して破ってはならない約束のひとつじゃない。決められた者が結婚して、子供を沢山産まなければ、その部族は滅びてしまうわ。私も早く彼の子供を産みたいと願っているのよ?
そんな大事な約束を、自分勝手に破った者を許せるはずがないじゃない。それを匿った者も、同罪よ。」
彼等の約束には、従姉妹の娘は当然に、その従兄弟の男衆の誰かが貰えるものと決まっているのです。ティティとセテフも従兄妹同士なのでした。
当然、貰えるはずだった娘は、まったく関係のない男が盗み取っていったのです、セテフの部族の男達は、当然、怒り狂ったのだと言うのです。けれど、姫君には、やはり殺し合うほどの問題だとは思えないのでした。
またある日にはこんな事もありました。
やはり夕暮れになってやってきたセテフは、最初は機嫌良くティティと話したり、ふざけて抱き合ったりしているのでした。けれど、次に姫君が見た時には、なんだか言い争いをしていて、その次に見た時には、ティティの頬を打ったのです。
「なにをするの!」
二人の言葉は解かりません。けれど、女に手を上げるなど、姫君には許せない行為です。セテフは、何か、早口に罵りの言葉を浴びせて、テントへと引き返してゆきました。
「……大丈夫? 怪我は?」
姫君は心配して、妹のように可愛がっている娘を助け起こしました。
「ありがとう、でも大丈夫よ。」
可愛そうに、ティティの唇は端が切れて、血が滲んでおりました。けれども彼女には慣れたものだったのでしょう、くすくす笑いながら姫君に答えます。
「あの人ったらね、夜に一緒に居られないからって、拗ねてるのよ。王女なんか拾うんじゃなかった!……ですって。」
姫君が捕えられてから、ひと月目のことでした。