1
新学期が始まって、二週間が経った。
私が受け持つ授業は学部生対象のもののみで、それは週に二日、同じ学部であるだけだ。それ以外の日はセンターに腰を据えて、事務やら研究やらに勤める。授業に関しては、今までの英語が日本語に変わっただけで、指導に何らかの影響を与えてることはなかった。多少なりとも内容は変えてはいるが、それくらい教員としてなら苦と思ってはいけない。
授業内容よりも大変だったのが、キャンパス内の移動だ。二週間も経てば、センターから学部棟や食堂までは簡単に行けるようになったものの、それ以外の場所になると極めて怪しい。専門外の学部棟は当たり前に、授業を行う教室以外の場所すらうろうろ迷ってしまう。
二時間目の授業が終わった水曜日、またしても私は学部棟をうろうろとしていた。センターに戻るためではない。班長である津村さんに、頼まれ事をしたからだ。頼まれ事といっても、資料の束を三神先生のところに持っていくだけのことなんだけど。その『三神先生のところ』というのがやっかいだ。恩師である秋月先生の研究室ならば何度か訪れたこともあるし、その場所も覚えている。けれど、三神先生とはセンターくらいでしか会わないので、その研究室の場所も知らない。今朝、授業のためにセンターを出るときに津村さんに聞いたっきりだ。
研究室のある階はやたらと静かだ。今日は早めに授業を終了したので、まだ二時間目終了の鐘がなっていない。学生の一人や二人がいれば案内でもしてもらうのだけど、この状況ではそうもいかないのだ。
結局、上がってきた階段の場所までぐるりと階を一周してから、やっと研究室までやってこれた。
ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてきたので、名乗りながらそのドアを開けた。
「ん? 芹沢くんか? どうしたんだい?」
横に広い研究室の奥にあるデスクに座ったまま、三神先生が不思議そうな顔をした。その三神先生のデスクの前には、一人の学生がいる。ショートカットというには少し髪の長い、明るい髪色をした女の子。眼鏡の奥の瞳が、不思議そうにこっちを見ている。どこかで見たことがあるな、と思いながら、資料の束を持ってデスクまで歩いていく。
「津村さんから頼まれ事をしたので。これ、渡しておいてくれって」
言いながら束をデスクの上から三神先生に差し出す。三神先生は眼鏡を押し上げてそれらを覗き見、「ああ、これか」と声をあげた。
「僕が頼んでおいたやつだね。わざわざありがとう、芹沢くん」
「いいえ」
「さっきまで授業だったのかい?」
私が三神先生の言葉に「はい」と頷くと、三神先生は「そうかそうか」と相槌を打つ。
「どうだい? 久しぶりの母校は」
「ところどころ改築してますよね。おかげで、知らないところが増えてて困ってます」
「そうだねえ。君が卒業してく頃から改築してて、君は完成まで見てないもんねえ」
今思い出したように、三神先生が笑う。
そう。母校にもかかわらず私がちょくちょくと迷ってしまうのは、この学校が学部増設とともに改築、増築を行ったからだ。でなければ、まさか母校で場所も分からずうろうろとすることはない。
「それに、意外にも受講生が多くて、出席一つ取るのも大変です」
「web出席は使わないの?」
「あれ使うと、ズルする学生がいて嫌なんですよ」
隣で、女の子が苦笑いを漏らしたのが横目で見えた。三神先生も笑っている。
「じゃあ、誰か補助を入れてもらったら?」
「それも検討中です。今連絡しても、教務課から連絡が入るには時間が掛かりますし」
「あ。それじゃあ、宮瀬くん、君やってあげたら?」
苦笑いで続けたところで、三神先生が私の隣に視線を向けて言った。私もそれにつられて隣の女の子を見た。女の子は目を点にして三神先生を見ている。おまけに、口もぽかんと開いている。
「え、なんでですか」
「いいじゃない。君、どうせこの時間は何も授業入ってないんでしょ?」
「いや、そういう問題じゃ……」
「この後だって、彼とお昼食べるだけじゃない。やってあげなよ」
「ちょ、先生」
女の子と三神先生が何やら押し問答を繰り広げ出す。焦って三神先生に反対する女の子だが、うちのところの恩師と似て、三神先生は相手の意思をすがすがしいほどに無視する。三神先生が「これも良い経験だよ、宮瀬くん」と言うのを聞いて、あっと思い出した。
短い、明るい色をした髪の女の子。『宮瀬』という名前の、三神先生のところの、修士一回生。初めてセンターに行った日に、段ボールを起こしてもらった女の子だ。
「あの時の、」
ぽろりと漏らした私の言葉に、言い合っていた二人がこっちを向く。女の子の顔がはっきりと見えたおかげで、より鮮明にあの時のことを思い出した。段ボールを持ったまま、おかしそうに笑った女の子。その隣に立っていた、男の子のことも。
「なんだ。知り合いなんじゃないの、二人とも」
後押しするような出来事を目の前にして、三神先生は嬉しそうに目を細めた。『知り合い』というほど知り合いなわけではないけど、初対面というわけではないから、「まあ」とだけ曖昧に返事をしておく。が、女の子の反応は違った。
「え、と。ごめんなさい。どこかで、会ったことありましたか?」
今度は、私と三神先生の目が点になった。戸惑った様子の女の子が、さらに眼鏡の奥の瞳を困惑させてこっちを見てくる。
「え? 知り合いなんじゃないの?」
「え、や。知り合い、なんですか?」
女の子の困惑が三神先生にも伝わったようだ。首を傾げた女の子の視線を受けて、私も困ってしまった。
確かに、センターでのことは二カ月も前のことだ。しかも、あの時は会話を交わしはしたけれど、それはほんの少しのことだった。私自身、すぐに思い出せなかったのも事実だ。それでも、完全に忘れ去られるとは思っていなかった。何より、女の子の方から助けてくれたのもあって、ちょっとへこむ。
「えーっと、7月にセンターで会ったんだけど……。あの、段ボール運ぶの手伝ってくれたよね?」
「段ボール……」
女の子が視線を私から外して、その時のことを思い出すように呟いた。それから少しして、「あ」と私の方に視線を戻す。
「あ、ああ。あの時の。『現代アメリカ社会』の」
「あ、うん。そう。『現代アメリカ社会』の」
あの時落とした本のタイトルは覚えてるらしく、それに頷くと、女の子は安心したように笑みを見せた。三神先生一人だけが不思議な顔をしているけど、ようやく私たち二人が知り合いだということに落ち着いたのを目にして、とりあえずは安心しているようだった。
「ほら、知り合いが困ってるんだから、助けてあげなさい」
「またそんなこと言って……」
最後の一押しとでもいうような三神先生の言葉に、女の子が呆れたという表情を作った。ちょうどその時、二時間目終了の鐘が鳴る。三神先生は、「ほら、どうするの」とわざと急かすようなことを口にする。これ以上抗っても無駄だと思ったのか、私に対する親切心が生まれたのか、少しの沈黙の後彼女は一つ溜め息をついてこっちを向いた。
「分かりました。先生の補助に入ります」
「おお。良かったねえ」
「ありがとう。本当に助かる」
女の子の返事を聞いて、三神先生が破顔する。強引さに悪いとは思いつつ、私もほっとした。
事実、水曜日の二時間目は予想を上回る受講生で、レジュメや資料を配布するのはおろか、出席集めでさえ大変な状況だった。補助が一人入るだけでも大助かりだ。
「来週からでいいですか?」
「うん。本当にありがとう。えーと、宮瀬さん、だっけ?」
「はい。修士一回の宮瀬春希です」
「そっか。私は、芹沢葵です。大学じゃなくてセンターの方に常駐してるんだけどね」