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津村さんから説明を聞いた後は、彼が言っていた通りにデスク周りを整理し、施設内を見学して、簡単な授業計画を作ることに集中した。大学に着いたのが午後ということもあって、それらをやるだけでその日は終業になって、センターの外に出るころには日が沈みかけていた。
「芹沢さん、場所分かる?」
デスクでパソコンの電源を切っていると、津村さんが鞄を持って尋ねてきた。『場所』というのは、秋月先生が言っていた私の歓迎会の場所だろう。私はデスクの上にあったものを鞄に仕舞いながら、首を横に振る。
「いいえ。というか、歓迎会のことも今日電話で聞かされたばかりなんです」
「え、そうなの? まったく、秋月先生らしいというか何というか……」
溜め息をつきそうな勢いでそう漏らし、津村さんが呆れた顔つきをした。私もそれには苦笑いしか返せない。
「じゃあ、一緒に行こうか。そのまま行ける? 車?」
「あ、違います。今日は、バスで来てますんで」
日本に帰国したと同時に向こうで使っていた車は売ってしまっていたし、新しい車はまだ届いていない。新しい車といっても、新しい車は母のものになり、私は母からのお下がりになるんだけど。
津村さんの誘いにこれ幸いと乗っかることにして、他の職員たちと一緒にセンターを出る。大概の人たちは大学の職員駐車場に向かっていって、私と津村さんは大学内のバス停に向かう。さっき津村さんから聞いたことだけど、金曜日の今日はテスト期間最終日ということで、学生の数も少ないらしい。夕方のこの時間でも、バス停に並んでる学生はほんの僅かだ。
「あ、永井先生。永井先生も行きますよね。歓迎会。一緒に行きます?」
津村さんと並んでバス停に立っていると、津村さんがキャンパスの方から歩いてきた好青年風の男性に一声掛けた。七分袖のシャツを着たその男性は手に鞄を持っていて、一見では学生にも見えたが、さっき津村さんが『先生』と言ったのを思い出し、職員なのだと考えつく。男性は鞄を持っていない方の手に携帯を持っていて、津村さんに気付くとそれを鞄に仕舞ってこちらを向いた。
「どうも、津村さん。すみませんけど、俺は一旦車を置きに帰るので」
「そうですか。あ、彼女が来期からうちのセンターに入る芹沢さんですよ」
男性は津村さんの誘いに小さく笑って首を横に振り、駐車場の方を指差した。それに津村さんが頷き、思い出したように私を紹介する。
「初めまして、芹沢です」
男性の目がこちらに向いたので、小さく頭を下げて自己紹介する。男性も同じように会釈をしてくれた。
「初めまして、永井です。大学の方に研究室がありますけど、一応センターの方にも関わってます。セクションは欧米じゃないんですけど、今日の歓迎会には出るんで」
「一応って、何言ってるんですか」
「いや、だって、けっこう強引に入れられたじゃないですか」
涼しい顔して面倒だということをさらりと言ってしまう永井さんを見て、津村さんが苦笑いを浮かべる。
「まあ、話は後ほどっていうことで」
「はい。じゃあ、後で」
お互いに会釈を交わして、永井さんが駐車場の方に向かっていった。
「そういえば、津村さんは車じゃないんですか?」
「ああ。今日は家に置いてきました。学校から直接行こうと思って」
「その方が良かったですね」と続けて、津村さんが笑ったところで、ちょうどバスが到着して二人ともそれに乗り込んだ。
今回の歓迎会は私の所属する欧米エリアだけのものだった。私以外にも二人新しくセンターに入所したようで、その二人は4月の新学期から勤務しているとのことだ。
二時間の歓迎会も終わりに近付けば、そこそこ同僚や上司と打ち解けることができる。何人かは私の恩師が秋月先生だということに、少しの同情を持って接してくれた。その恩師は、この歓迎会でも、研究室で会った三神先生とちくちく突き合っている。学部生の頃から二人のことは知っているけど、あの二人は単なる悪友という感じだ。その三神先生の下についているのが、あのバス停で会った永井という先生らしい。だから、セクションが違うのに、今日の歓迎会に参加することになったようだ。
「そういえば、」
その秋月先生と三神先生を見て思い出したのが、段ボールを持つのを手伝ってくれた学生だ。ちょうど隣に津村さんがいたので、彼女たちのことを聞いてみる。
「ああ、あの二人? 女の子の方は、三神先生のところの院生だよ。よく三神先生に雑用押し付けられてセンターに来てるんだ。今修士一回生で、えーっと、宮瀬さん、っていったかな。男の子の方は、彼女の友達。彼も修士一回」
「彼も三神先生のところの?」
「ううん。彼は違うよ。どこかは忘れちゃったけど、理系だった気がする」
津村さんの説明にビールを飲みながら頷く。センターで会った二人を思い出して、文系と理系の組み合わせなんて珍しいなと考える。人が良いのは分かったけど、どちらもそれほど喋ることもなくて、あまり会話をした覚えもない。
「まあ、男の子の方はともかく、宮瀬さんはそこそこセンターに顔出すから、これからも会うことはあるよ」
「そうですか」
それであの学生についての会話は終わって、二人ともジョッキに残っていたビールを飲み干した。
それから数十分して歓迎会が終わり、二次会参加、不参加の人数を取り始めた。いきなりな歓迎会だけでも疲れているのに、そのまま二次会に行けるほどもう若くはない。「行かないの?」と言ってのける秋月先生に無理だと即答した。私以外の新人二人は参加するらしい。結局、不参加は半分以下で、参加するメンバーとは店の前で別れることになった。
「家、こっち側ですか?」
二次会組を見送った後に、不参加メンバーにも挨拶をして足を踏み出したところで、後ろから声を掛けられた。振り返ると、バス停で会った永井さんがそこにいた。
「いえ、違うんですけど、ちょっと行きたいところがあって」
「今からですか?」
午後の9時も回ったこの時間に、行けるところなんてたががしれてる。それを分かってるのか、永井さんが少し驚いたように返してきた。それに苦笑いをして、渇いた笑いを漏らす。
「えーと、ちょっと、コーヒー飲みたいなと思って」
私の答えに永井さんはきょとんとした後に、おかしそうに笑みを浮かべた。
「飲んだ後にコーヒーなんて、寝れなくなりませんか?」
「一杯くらいなら、大丈夫ですよ。一緒に行きますか?」
少し、酔ってるのかもしれない。本当は一人で行こうと思っていたのに、何の考えもなしに誘ってしまった。言った後に一人で困っていると、永井さんは笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「すみません。俺もこの後少し用があるんで、また今度」
永井さんの言葉に心の中でほっとしつつ、こっちも笑みを返す。
「そうですか。じゃあ、また来週」
永井さんが「はい」と返事をして、私に背を向ける。そのまま永井さんは地下鉄の方に向かって歩いていく。永井さんがジーンズのポケットから携帯らしきものを取り出したところで、私も彼に背を向け、賑やかな駅前のすぐそばにあったコーヒーショップへと足を向けた。
昔は、飲んだ後にコーヒーを飲むことが習慣となっていた。食事をした後に、研究所のみんなとパーティーをした後に、誠一さんと二人でコーヒーを飲んでいた。飲む場所は、その時々によってまちまちで。私の家だったり、どこかのコーヒーショップだったり。アルコールを飲んだ後だというのに、誠一さんは濃いコーヒーを飲んでいた。
もうこれっきりだと思うのに、思い出は一向に私の頭から出ていってはくれない。思い出しては頭の中から追い出そうとして、だけどそれはふと瞬間にまた思い出されて。終わりのない繰り返しに、嫌になる。
アルコールを飲んでるせいだろうか。いつもなら頭から追い出す思い出に、今はそれに抗うことなんて考えつかない。
コーヒーショップまで来ると、ぐっとそのドアを押し開けた。週末の夜だが、居酒屋と違ってここはあまり人がいない。カウンター上に掲げてあるメニュー表には見向きもせずに、カウンターまで足を運んだ。
「ホットのカフェアメリカーノ一つください。……濃いめでお願いします」