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暦も、7月に入った。
6月中旬に日本に帰国し、それから二週間。新しいマンションが決まるまでは、郊外にある実家で暮らした。幸い、私の実家は私が通った、そしてこれから務める予定の大学と同じ県で、その距離も一時間程度のものだった。実家の両親は久しぶりに顔を見せた娘を歓迎してくれ、それなりに喜んでもくれた。初めは。一週間も過ぎればその歓迎は鳴りを潜め、30手前の娘に対してよくある小言をちくちくと言われるようになっていた。
そんなわけで、7月に入ってようやく大学近くのマンションに入居したとき、少しだけほっとしたのも事実だ。
去年の暮れ、いきなり電話したにもかかわらず、恩師は私の承諾の答えを喜んでくれ、何としてもねじ込むと嬉しそうにしてくれていた。
『ねじ込む』の部分が気になりはしたけど、その時の私にはそんな言葉で行動を変えられるわけもなく、ただただ恩師に感謝の気持ちでいっぱいだった。といっても、感謝の気持ちだけでどうにかなるわけでもなく。
日本の新年度は4月から。在学生に履修要項が配布されるのは、たいてい3月。その一か月前には業者に頼まなければならない。つまり、年が明けてから何かしらの準備をするには、一カ月しか時間がなかったのだ。シラバスの作成、履歴書の作成、推薦状の用意、テレビ電話でのインタビュー。それらと並行して通常の業務もこなしていたその一カ月は、先月にも増して、猫の手も借りたいほどの忙しさだった。
恩師の『ねじ込む』作戦がうまくいったのか、インタビューの数日後に採用の通知が届いた。まだ半年分のセメスターがバークレーで残っていたので、私が母校で仕事をするのは日本の大学で後期が始まってからだ。
研究所と非常勤で勤めていた大学には、年明けの仕事が始まってすぐに辞職の意思を申し出た。非常勤の大学はともかく、研究所の所長はひどく驚いていた。大学は変わるだろうと予測していたが、日本に戻るとは聞いてないと。恩師に呼ばれているので、と答えれば、仕方なさそうに頷いていたが。ケリー以外の同僚も、みな同様の反応で。その中に誠一さんの姿を見つけたが、何もなかった振りをして、同僚に『最後までよろしく』と伝えた。
誠一さんとは、もう、あのパーティーの日以来、連絡をとっていなかった。たとえ、彼から連絡が掛かってこようとも。
***
恩師に大学に来るように呼び出されたのは、7月に入って二度目で。帰国した6月に会ってから、一週間ほど経っていた。
私は大学に付属している『多文化共生研究センター』という研究所にポストドクターとして採用され、同時に大学でも非常勤としていくつか授業を受け持つことになった。ということは、採用の通知を貰ったときに既に聞かされていて、一度目に恩師と会ったときは単なる昔話で時間が過ぎた。
そして、二度目に会う今日。やっと施設内を案内してくれるということだ。『案内』と電話で聞かされていたのに、今私が一人で大量の段ボールを抱えてセンター内を歩いているのは不思議で仕方ないのだけど。
『だって、君、まだ何の荷物も運んでないでしょ。ついでだから、他にもいろいろ運んでおいてよ。僕は後から行くから。あ、それと、今日君の歓迎会も予定してるからね。予定空けておいてね』
自分の恩師がかなりの変わり者で重要なことは後回しにする癖があって、若干の自己中心的な人間だということをすっかり忘れていた。当日になって予定を空けておけだなんて、どれだけ勝手なんだ。元から予定のない私も私だけど。
だいたい、この荷物の量はなんなのだ。私の物が入っている段ボールは大きいものが一つだけなのに、その他大きい段ボールが二つもある。しかも、その二つの方が重い。
「もう。何入ってんのよ」
ぶつくさと文句を言いながらセンター内のエレベーターに乗り込む。そのエレベーターだって、段ボールを抱えているせいで両手が塞がっていて、右肘でボタンを押して乗り込んでいる。地下に会議室を、二階、三階に事務室や研究室、会議室を持つこのセンターの一階は単なるロビーとなっていて、段ボールを乗せるための荷台なんかが置いてあるわけがなかった。
チン、とエレベーターが目的の階に着いたことを知らせる音が鳴って、苛々したまま足を踏み出す。が、その苛々のせいか視界の半分ほどを防ぐ段ボールのせいか、私が足をエレベーターの外に出したときはドアがまだ開き切っていなかったらしい。両手に不安定に抱えられていた段ボールの端っこがそのドアにぶつかり、私がエレベーターの外に一歩踏み出した後には、ものの見事にバランスを崩した段ボールが腕の中から音をたてて落ちていった。
「え、あ。あー」
ぐらついた段ボールを目で追うことしかできず、鈍い音をたてた段ボールに目を瞑った。
「うわ。最悪」
抱えていた一番下の段ボール以外が床に落ちてしまっていて、横になってしまったその段ボール二つを見下ろして悪態をついた。よく見れば、転がっている段ボールの角が何箇所かへこんでいる。中からは、分厚い本や空のファイルが顔を出していた。段ボールの一つはエレベーターのドアに挟まれるように転がっており、それをどかさなければエレベーターが閉まらない。大きく溜め息をついて、持っていた段ボールを床に置き、その段ボールを引っ張ってエレベーターの外に出した。
「あの、大丈夫ですか?」
邪魔な物がなくなったエレベーターが閉まったところで、後ろから声を掛けられた。少し戸惑っているような声から、今の一連の流れが見られていたことを何となく悟る。とりあえず返事をしようと振り返ると、学生らしき二人がそこに立っていた。少し明るめの色をしたショートカットの女の子と、黒い短髪の男の子。
「これ、中に入ってたやつですか?」
そう言って、女の子が一冊の本を差し出す。
「あ、たぶんそうだと思う。ありがとう」
受け取って、視線を転がっている段ボールの方に向けた。段ボールはエレベーターの斜め側にある階段の方に向かって蓋が開いていた。そこから何冊かの本も飛び出していたし、差し出された本もそこから飛び出たものだろう。今階段を上がってきたらしい二人の学生のうち、男の子の方がすたすたと私の方に歩いてきて、「よっ」という一声とともに転がった段ボールを起こす。女の子も、もう一つの段ボールを起こしてくれた。
「あ、どうもありがとう」
「いいえ。これ、重いですね。どこに運ぶんですか?」
「え? えっと、そこの研究室だけど」
「じゃあ、おんなじだ。運びますよ」
廊下の先にある研究室の方を指せば、小さく笑みを浮かべて女の子が言った。飛び出していた本を段ボールの中に入れ、女の子はそれを持ち上げる。「え?」と女の子の言葉を飲み込めないうちに、男の子の方も女の子にならって段ボールを持ち上げていた。床に残っているのは、私の物が入った段ボールだけ。
「行きましょ?」
段ボールを持ったまま首を傾げて私のことを促してくる女の子。やっと目の前のことを理解してきた私は、焦って首を横に振る。
「え、いいよ。運ばなくても。重いんだし。もう、すぐそこだから」
「重いなら三つなんて余計に無理じゃないですか。それに、行くところ、たぶん一緒だから大丈夫ですよ」
女の子がおかしそうに笑って言う。男の子はちらっと女の子の方を見てから、一度段ボールを抱え直す。なんとなくそれに急かされているような気がして、「ごめんね」と一言謝ってから自分の分の段ボールを持ち上げた。
「でも、本当に行くところ同じなの?」
三人が並んで歩き出してから尋ねると、女の子は顔をこちらに向けて「たぶん」と笑って頷いた。センターの二階には部門ごとに部屋が別れていて、数名単位の研究員で研究室があてがわれている。その中のどことも言っていないのに、なぜ分かるんだろう。
「『現代アメリカ社会』って、北米関係の本ですよね?」
「え? あ、うん。そうだけど」
「それ、さっき落ちてたんで。たぶん一緒だろうなって思って」
私の疑問に答えるように笑って、女の子はすたすたと研究室の方に歩いていく。それ以降、女の子も男の子も何か話すことはなかった。
「ああ、なるほどね」
女の子の答えを聞いて、一人納得する。さっき転がった本で、研究室のセクションが分かったんだろう。それが分かるということは、女の子も男の子も院生なんだろうか。学部生はこんなセンターまで来ないだろうし。