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『それで、今日、やっぱり違うと思ったの? セーイチは、私だけのセーイチじゃないんだって』
ゆっくりと私の背中をさすりながら尋ねるケリー。疑問文なのに、その聞き方はどこか確信めいたものに聞こえて、少しだけ笑ってしまう。そんな風に思えたら、どれだけ良かっただろうか。誠一さんがただ一人の人だと思って、自業自得の結果その人が手に入らずに悲しみに打ちひしがれるだけなら、どれだけ良かっただろうか。あの瞬間、私の心の中に広がった感情は、そんな恋や愛に染まったものではなかった。
『アオイ、』
気を遣うように、ケリーは私の背中をさすり続けてくれている。
『そうじゃ、ないの』
私がケリーの言葉を否定すると、背中をさすっていたケリーの手が止まった。
ケリーの手が再び背中で動き出したのを感じ取って、それを合図に一度息をついて口を開く。
『誠一さんと千江さんが並んで立ってたとき、それ見て、何ていうか……。自分が、すごく部外者だって思ったの。もちろんそれは当たってるし、それが悲しいとかじゃなくて。誠一さんに寄り添ってる千江さんは、そこにいるべきしているような気がして。なんか、もうこれから先、私はそういう場所を作れないような感じがして、すごくあの場所から切り離された気分になって。すごく、自分が、みじめに思えた』
アパートの同階の住人がニューイヤーパーティーでもやっているのか、時折騒ぐような声とリズムのよい音楽が聞こえてくる。
ケリーはあれから休むことなく私の背中をさすっていた。
『これから先、どれだけ研究を続けても、どれだけ論文を書いても、誰とどんな恋愛しても、ぜったいにあそこには行けない気がした』
そこまで言って、震えた溜め息をつき、目を閉じた。背中をさすっていたケリーの手は肩の方へと移動して、ぐっと私の肩を抱いてくれる。
『アンタが行くべき場所は、セーイチの隣なんかじゃないわよ』
『分かってる』
『アオイが行きたいと思う場所は、必ず出てくるし、アオイなら絶対に行けるわ』
『そうだろうけど、今はそんな前向きになれないだけ』
『前向きになんかならなくたっていいの。それが分かってるだけで十分。これから先、セーイチが恋しくて死にそうなんてことにならなけりゃ、それでいいのよ』
『アオイがしてたのは、恋愛なんかじゃないわ』。そう続けて、ケリーがまたぐっと肩を抱いてくれた。
やり取りを終えるころには、私は鼻を啜るだけで、出そうになっていた涙もどこかに消えていて。少しだけ、気持ちは軽くなっていた。
だけど、現実の出来事は軽くはならない。
『仕事は、続けるんでしょ?』
少しだけ、さっきまでの励ましの調子を落とした声音で、ケリーが尋ねてきた。もう一度鼻を啜り、小さく頷く。
『そのつもり。けど、できることなら、今は誠一さんに関わりたくないのも本音』
誠一さんは、研究所が所属している大学の教授だ。私と誠一さんは研究領域こそ違うものの、大枠で捉えれば関連のある分野で、彼は大学教員であるとともに研究所の研究員でもある。つまり、私と誠一さんは何か特別なことをしなくとも、顔を合わせる関係なのだ。
『……きっと、千江さんも気付いてる』
ほとんど諦めに近い私の言葉に、ケリーも『そうね』と返してきた。
誠一さんに寄り添っていた千江さんの瞳は、真っ直ぐに私を捉えていて、私と二人の間に明らかな線を引くように微笑んでいた。それは、威嚇にも警告にも似たもので、それがより一層私をアウトサイダーのような気にさせたものだった。
今年度はまだ半分しか過ぎていない。年が明ければ、次のセメスターが始まる。少なくとも、あと半年はここに残らなければならない。それ以降は、きっと大学を移ることになるだろう。それに、書きかけの論文もある。どうやっても、誠一さんとの関わりが消えない。
『あと半年、ね』
『うん』
ケリーもそれを分かっているようで、溜め息とともにそう呟く。肩を抱いていたケリーの手が下りていって、すとんとベッドの上に落ちたのが音で分かった。私の視線は下を向いたままで、見えるものといったら、自分の足元と組まれたケリーの足元だけだ。
二人ともが何も言わないでいて、パーティーの騒ぐ音がぼんやりと聞こえてくる。これから半年のことを考えて気落ちしていると、いきなり、ケリーが『あっ』と何かを思い出すように声をあげた。
『なに?』
その声に思わず顔をゆっくりと上げる。視線を上げた先にいるケリーの目は、ベッドの横にあった小さいサイドテーブルに向いていた。その上には、日本の大学の友達と撮った写真とこっちに来てから撮った友達との写真がフォトフレームに入って飾ってある。
ケリーは口を開けたままそれを指差していた。
『ケリー?』
『それよ!』
『は?』
写真を指差したまま、ケリーが大きな声で言った。意味が分からない私は、首を傾げるしかない。ケリーはいきなり首を回して、ぽかんとしたままの私の方を向いた。
『アオイ、アンタ、やっぱり日本に帰んなさい』
『は?』
いきなり何を言うんだと目で訴えても、ケリーのいきなり輝きだした目には敵わないらしい。
『なに。仕事辞めろって?』
『違うわよ。日本で、仕事しなさいって言ってんの』
『しなさいって言われても、』
『もうオファーが来てるでしょうよ』
そこまで言われて、ようやくケリーの言いたいことが分かった。
『芹沢くん、君、こっちに戻ってこないかい?』
今月の頭ほどに掛かってきた、恩師の言葉が脳裏をかすめていく。その言葉は、私の頭の中で何度も何度もリピートされ、ようやくその言葉を理解することができた。
それでも、と少し躊躇してしまう。もう、年明けだ。いくら何でもぎりぎりすぎる。
『ぐだぐだ考えても仕方ないわ。いいから、電話しなさい』
考えを見透かしたようにケリーは言って、私のバッグから携帯を探しだし、ずいっとそれを目の前に掲げた。
『ちょっと、もう遅いのよ。迷惑じゃない』
『何言ってんのよ。向こうはまだ夕方じゃない』
またもや、バカみたいに口を開けてしまって、その先には、勝ち誇ったように笑みを浮かべるケリーが携帯を掲げていた。
***
『皆さま、本日もアメリカン航空をご利用いただきましてありがとうございました。またのご搭乗をお待ちいたしております』
シートベルト着用のサインが消えて、カチリとベルトを外す。ぐっと簡単に伸びをして、小さく欠伸をする。窓の外では日が沈みかけている。飛び立ってから少しだけ眠っておいたので、今夜ぐっすり眠れば明日は軽い時差ぼけで済むだろう。初めて渡米したときはひどかった。人間、慣れだ。
飛行機を出てから、前を行く人たちについていき、入国手続きを終え、荷物を受け取り、空港の自動ドアをくぐった。空港の自動ドアを抜けると、むっとした空気が全身に当たる。日本の6月は、梅雨時期のせいか、とても蒸し暑い。久しぶりの気候に、少しげんなりした。真夏でも夜は寒いと思えるバークレーに数年いたせいか、身体がすっかりなまっているようだ。
空港からのシャトルバスに乗り込んで、真ん中あたりの窓際の席に座る。発車したバスの車窓から外を眺めていると、アメリカはシアトルが本店のコーヒーショップが目に入った。
『なんでそんなに濃くいれたコーヒーが好きなんですか?』
『んー、深い意味はないんだけどね。アメリカのコーヒーって濃いイメージがあったから、初めて飲んだ時は薄くてびっくりしたんだ。それで、アメリカ人はこんなの飲んでるのかって思って。気分だけでも盛り上げようと思って頼んだのが、始まりかな』
単純でしょ、と続けた彼の言葉がよみがえって、これが最後だと、目を閉じた。