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『お飲み物は何になさいますか?』
『え?』
はっと意識が戻ったのは、フライトアテンダントに声を掛けられた時だった。寝てはいなくて窓の外を見ていたはずなのに、意識はまったく別のところにあったらしい。声のした方を見れば、もう一度『何をお飲みになられますか?』と聞かれた。
『あー、じゃあ、コーヒーで』
すぐに渡された紙コップのそれにお礼を言うと、アテンダントは笑顔で返事をし、また次の乗客へと顔を向けた。
受け取ったコーヒーを一口飲んで、『薄いな』と思った。そして、すぐに『ああ、もう』と自分に呆れた。
誠一さんは、濃いコーヒーが好きだった。自宅で入れるコーヒーは自分で入れるし、店で買う時もわざわざ『濃くいれて』と頼むほど。
誠一さんに会うまではどんなコーヒーでも飲んでいたし、何とも思わなかった私も、彼と長い時間を過ごすにつれて、濃いコーヒーを好むようになっていった。
置いてきたはずの過去は、こうして意図せずに私の記憶から引きずり出される。
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案の定、12月の26日に会ったとき、誠一さんから年末のホームパーティーの件について聞かされた。友達からの誘いを受ける前だったら、『じゃあ、年末は一人だなあ』なんて少し意地悪な言葉で、誠一さんの言葉の言外の意味をくみ取っていただろう。だけど、その時はそうもいかなくて。もう返事をしてしまったことを言えば、誠一さんはそれ以上深くは言わないで、『じゃあ、気をつけて来るんだよ』と困ったような顔に笑みを浮かべていた。
誠一さんのためにできたことが、26日に貰ったプレゼントを身につけずにパーティーへ行き、ただのお世話になっている部下の一人だという顔をし、引っ越したばかりだといういう誠一さんの新居に友達と一緒になって驚きの声をあげることだった。
「葵さん、だったかしら?」
周りでなされている言語とは違う、それでいて懐かしさを覚える言語、日本語で話し掛けられ、ぱっと声のした方を振り返った。一緒にいた友達も同じく振り返った。ゆらっと、手にしていたグラスの中のシャンパンが少しだけ揺れる。そして、振り返った先にいた人の隣に立つ人の瞳も、揺れている気がした。
「あら、やっぱり葵さんだわ」
周りの動きが、身体が、止まった気がした。目の前に立つ人は、それに気がついただろうか。私の隣にいる友達は、それに気付いただろうか。
「主人が違うかもと言ったんだけれど、私の方が葵さんのこと覚えてたみたいね」
「こんばんは。千江さん。お久しぶりです」
言いながら、声が震えていないことを祈った。友達は目の前で交わされる日本語の会話にも動じず、自らも日本語でその人と久しぶりの会話を交わす。私はそちらに視線を送り、決して千江さんの隣に立つ人物――誠一さんには目を向けなかった。
「本当に久しぶりだわ。二人とも、長いこと会っていないんだもの。特に葵さんは、入所の時以来じゃないかしら?」
「そうですね」
「主人ったら、話ばっかりでちっとも連れてきたりはしないのよ」
「そうでしょ?」と千江さんが続けて、隣に立つ誠一さんを見上げた。誠一さんは何ともない顔をして笑って、千江さんの――妻の肩を抱いて引き寄せた。
「ステキなお家ですね」
「ありがとう。前よりは少し狭くなったけど、街や大学までの距離を考えると、こっちの方が断然いいのよ」
友達は訛りのない日本語で千江さんと話を続けながら、ちらりと、ほんの少しだけ私に視線を送ってきた。私はその会話を聞きながら、笑みを保つのに必死で、その視線に応えるだけの余裕などなくて。きっと、浮かべた笑みも、ぎこちないものなのだろう。
「引っ越したばかりだから、いろいろ見苦しい部分もあるかもしれないけど、楽しんでいってね」
友達との会話を終えた千江さんが、にっこりと笑みを見せ、久しぶりの談笑を締めくくった。誠一さんの腕は依然と千江さんの肩を抱いていて、そこに寄り添っている千江さんはいるべき場所にぴったりと収まっていて、途端に、私一人だけが、周りに大勢の人たちがいるにも関わらず、アウトサイダーであるような気分になった。
「はい」と返事をした声も、笑みも、きっと何ら変わりはないはずだ。事実、耳に届いた私の声は、さっきよりも何倍も普通のような気さえした。
二人寄り添ったまま私と友達の横を通り過ぎていく誠一さんと千江さんを見送るときも、誠一さんが一瞬だけ送ってきた視線に気付いたときも、自分でも驚くほど周りと同じような笑みを浮かべていられた。
『アオイ、』
それでも、隣にいた友達から、すべてを悟ったように声を掛けられたとき、張り詰めていた糸が切れた。
『ごめん。今日はもう帰るね』
友達の動揺した声に曖昧な笑みを見せ、近くのテーブルに飲みかけのシャンパングラスを置くと、さっと彼女に背を向けた。
『アオイ、そういうことなの?』
結局、友達は私の飛び乗ったタクシーに強引に乗り込み、私のマンションまでついてきた。そして、部屋にあがっての一声が、これだった。
『そういうことって?』
あからさまに友達を避けるように部屋の中を動き回って、着ていたコートや持っていたバッグなんかをソファに放り投げる。
『誤魔化さないで。あなたのツリーの送り主は、セーイチだったのね』
決定的に言葉を放たれてもなお、私はそれを笑い飛ばした。
『キヌカワさんが? 冗談でしょ。そんなわけないって』
『アオイ!』
『気にしすぎよ、ケリー。さっきは人が多くて気分悪くなっただけなの』
笑いながら友達――ケリーに言葉を返し、着ていたドレスを脱ごうとベッドルームへと足を運ぶ。
『アオイ、』
ケリーはそこまでもついてきて、クローゼットを開けた私の腕を掴んだ。
『気付いてるでしょ? あなた、さっきから壊れたロボットみたいに笑ってる。楽しいことなんて、さっきから何一つないでしょ?』
『アオイ』ともう一度名前を呼ばれて、ついに私はその場に崩れ落ちた。
『……セーイチとは、いつからだったの?』
クローゼットの前で崩れ落ちた私を引っ張り起こし、ベッドに腰かけさせて、ケリーは質問を始めた。千江さんと誠一さんとの対面で、ケリーには分かってしまったようだ。驚きと戸惑いが、ケリーの口調に表れている。
『研究所に所属して少ししてから。出会ったのは、私が博士課程のころだったけど、キヌカワさんと……、誠一さんと個人的に会い始めたのは、入所してからよ』
今でもすぐに思い出される過去は、昨日までの私になら笑みをもたらすものだった。今の私には、少しの笑みももたらさない。
誠一さんと初めて食事を共にしたこと。研究所内で誰にも気付かれずに笑みを送ってくれたこと。初めてキスを交わし、肌を合わせたこと。
記憶の先にある過去は、今となっては苦しいほどに私を締め付ける。二人で微笑み合った記憶に、ぴしりとひびが入る。
『先がないことなんて、初めから分かってたし、その考えはいつだって頭にあったの。だって、何週間も会えなくても別に苦しくなんてなかった。誠一さんが千江さんといるって思っても、何とも思わなかった。誠一さんと過ごす日が楽しくて、安らいで……』
『ただ一緒にいられたら良かった、って?』
ケリーの口から続けられた言葉は、B級のメロドラマ並に痛々しいものだったけれど、それが本心の私は素直に頷くことしかできなかった。たとえ、今はその言葉がとてつもなく平凡でありふれた言葉に聞こえたとしても。