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それを聞くと、「なんか想像できないなあ」と芹沢さんが笑った。笑う芹沢さんの顔からは、少しだけ疲れが見えなくなる。
「芹沢さんは? なんでわざわざここに?」
聞いている途中で、俺のすぐ隣にある階段から二人の学生が上がってきた。邪魔にならないよう少しテーブルセットの方に近付く。
俺の質問に、芹沢さんが少し困ったように笑う。その顔をした途端に、さっき見えていた疲れがまた顔に表れた。
「休憩、かな。私も」
困ったように笑ったままそう答えられて、「そうなんですか」としか俺も返せない。俺の記憶が正しければ、芹沢さんがいるセンターには休憩用のラウンジがあったし、そこには自販機もあったはずだ。わざわざセンターから離れた食堂の方に来るっていうことは、センターの人を気にしないで休憩したかったとかその辺だろう。
「疲れてます? もしかして」
通りかかった時に見えた疲れた様子と、とりあえずという感じで買った様子の缶コーヒーから尋ねると、芹沢さんからは「まあね」という曖昧な答えが返ってきた。「座ったら?」と椅子を勧めてくれる芹沢さんに「どうも」とだけ答えて、鞄だけを芹沢さんの向かい側にある低い一人掛け用のソファに置いた。置いた鞄の中から財布を取り出して、すぐ後ろにある自販機の方を向く。10月に入ったからか、自販機の表示の半分ほどが温かい飲み物になっていた。
俺もコーヒーを買おうかなと考えて、芹沢さんが買ったのと同じ缶コーヒー会社の微糖コーヒーのボタンを押した。すぐにゴトン、という音がして、下の取り出し口にコーヒーが落とされる。お釣りのレバーを下げようとして、少し思い立って、後ろを振り返った。こっちの様子を見ていたらしい芹沢さんと目が合って、「なに?」と聞かれた。それには答えずに、お釣りのレバーを下げる代わりに、温かいミルクティーのボタンを押す。ガチャン、と俺の缶コーヒーとぶつかったような音を聞いてから、お釣りのレバーを下げた。
お釣りを財布に仕舞って、取り出し口から温かいコーヒーとミルクティーを取って、後ろのソファに戻る。財布を鞄に入れて、それを脇に寄せ、ソファに座りながら温かいミルクティーを芹沢さんの前に置いた。
「え、なに?」
いきなり目の前に出されたミルクティーを見て、それから俺を見て、芹沢さんが驚く。向かいのソファに落ち着いた俺は、自分の缶コーヒーを開けて、片手でミルクティーを指差した。
「疲れた時は糖分ですよ。コーヒーは疲れた時には効きません。俺の経験上」
「じゃあ、帰りに飲もうかな」
「帰りは帰りで飲んでください。ひどい顔してますよ」
言いながら、芹沢さんの前に置いてあった口の開いた缶コーヒーをこっちに持ってくる。
「ひどい顔って、失礼な」
「だって、本当にそんな顔してましたよ」
「どうせ三十路前ですよ」
「誰もそんなこと言ってないじゃないですか。なに自分で年ばらしてんですか」
つい宮瀬たちと同じようなやり取りをしてしまって、『あ』と思った時にはもう遅く、目の前の眉を持ち上げるようにしてこっちを見ていた芹沢さんと目が合ってしまった。
「古賀くん、そういう感じなんだね」
「『そういう感じ』って、どういう感じですか」
「なんか、もっと当たり障りない感じなのかと」
「誰に対して当たり障りないんですか」
「んー、あんまり親しくない人に対して?」
「さあ。どうなんでしょうね」
自分で言ったくせになぜか疑問形で返されて、こっちとしても返答のしようがない。ので、曖昧に返事をしておいた。だいたい、そんなこと言われても分からないし。
「基本的に人見知りなんで、誰に対しても当たり障りない感じなんじゃないんですか」
「でも、ちゃんと人の顔は覚えててくれるよね」
「けっこう根に持ってます? それ」
「それなりに。昨日、宮瀬さんにも同じようなこと言ったら、『根に持ちますね』って言われたよ」
それを言った時の宮瀬の顔が簡単に想像できて笑ってしまった。同じように芹沢さんも笑っていて、単に話のネタとして振っただけのようだった。
芹沢さんの前に置かれたミルクティーはまだ開けられていなくて、それを促せば、諦めたように溜め息をついてから、芹沢さんが缶の口を開けた。俺はすでにコーヒーを何度か飲んでいて、俺が半分ほどを飲んだ時に、芹沢さんが初めてミルクティーに口をつけた。一口、二口飲んだ後に、芹沢さんが缶を膝のところまで降ろして「あったかい」と一言漏らした。
「何となく、疲れ取れそうな気がしません?」
「うん。するね。紅茶なんて飲んだの、どれくらいぶりだろう」
「そんなに飲んでなかったんですか?」
芹沢さんの言葉に驚いて聞き返すと、芹沢さんは「うん」と頷いた。
「院生の頃からアメリカにいたから」
「アメリカ? じゃあ、ここに来るまで、仕事もアメリカで?」
「そう。っていっても、やってることはあんまり変わらなかったけど。大学付属の研究所にいたの」
「それでも、すごいですね」
口をついて出た言葉に、芹沢さんは「そうかな」と困ったように笑う。
芹沢さんのしていることなんて、俺にはまったく分からないし、完全に専門外だけど、自分の国じゃないところで仕事をしていたというのは、素直にすごいと思う。
芹沢さんはまたミルクティーを飲んで、ほっと息をつく。寒いというわけでもないのに、両手で温かい缶を握りしめて、もう一度息をついた。
「そこの研究所でちょっとあって、それがまだ継続中らしいの」
「『らしいの』って、自分のことじゃないんですか」
変な物言いをする芹沢さんに笑って返せば、「そうなんだけどね」とまた困ったような顔をされた。
「いいじゃないですか。芹沢さんは日本にいるんだし、向こうが直接何かできるわけじゃないですよ。遠くで何か言うやつは、直接何かすることなんてできないんですから。言いたいやつには言わせておけばいいでしょ」
何のことで揉めてるかは知らないけど、素直に思ったことを口にすれば、芹沢さんの目が点になった。何ですか、と目で訴えると、芹沢さんが「ううん」と首を横に振る。
「なんだか、すごく経験者っぽい言い方だったから」
「そうですか?」
「うん」
今度は、俺の方が困ってしまった。別に、俺が他人に何か言われたという経験はない。ただ、同じようなことを言ったことがある。まだ学部生だったころ、彼氏がいながら俺たちと遊ぶことを非難された、宮瀬に。
「ありがとね」
「え? 何が?」
だいぶ昔のことを思い出していたら、いきなりお礼を言われた。思わず聞き返すと、芹沢さんが小さく笑っていた。今度の笑みからは、困っている様子は見られない。
「ちょっと楽になったから。直接何かできることなんてないっていうの聞いて。あと、紅茶もね」
「あ、ああ。なら、良かった」
同じようなお礼も、言われたことがある。自分だけが悪いのかと泣きそうになっていた宮瀬に。何をどうするかを決める権利なんて、向こうにはないと言ってやれば、ほっとした顔になって笑った宮瀬に、『ありがとう』と言われた。
ずいぶん昔のことなのに、今それが芹沢さんと重なりそうになって、目を逸らすようにしてコーヒーに手を伸ばした。
「そういえば、古賀くんと宮瀬さんって、学部生のころからの付き合いなんだって?」
なんで、こう、聞かれたくない時に限って、聞かれたくない内容を聞かれるんだろう。飲みかけていたコーヒーが変なところに入りそうになって、少し咳き込んでしまう。芹沢さんは特に不思議に思うこともなく、「何やってるの」と笑っただけだった。もう一度小さく咳をしてから、缶をテーブルに置いて「そうですよ」と頷いておく。
「すごいよね。そんな風に続くのって」
「そうですか?」
「そうだよ。だって、夜ご飯も一緒に食べてるんでしょ?」
「平日だけですよ」
答えながら、もう一口コーヒーを飲む。
大学院に進学して半年が経った最近では、平日に俺と宮瀬、犬居の三人で夕飯を一緒に取ることが多くなった。まるで、大学のあの時のようだ。二回生の後期の時、俺と宮瀬、谷原の三人で遊んでいた、あの時。
といっても、あの時のように遊ぶ割合が大半を占めているわけでもなく、かといって俺にまだ気持ちが残っているとかそういうことでもなく。単に便宜上の理由という理由から、夕飯を一緒に食べているわけだ。主に、俺と犬居の。
大学卒業まで実家で暮らしていたのは俺だけではなく犬居も同じで、二人して大学院進学と同時に大学のある二つ隣の県まで越してきていた。俺たちの実家からここまでは電車で二時間程で、無理をすれば自宅通学もできた。実際、学部生の頃はここから俺たちの大学まで通学していた奴もいる。だけど、実験が中心で研究室にこもりがちになる理系の大学院では、それがなかなかにきついということが分かって、二人ともそれを断念したのだ。
一方、宮瀬はというと。前期は授業もそれなりにあって大変だということだったが、後期に入った今はそれなりに時間に余裕もできてきたらしい。根が真面目な宮瀬は他の院生よりも頻繁に研究室に通っているが、それでも理系ほど研究室にこもる必要がない。
余裕のない一人暮らしの理系院生二人とまだ余裕のある院生一人。加えて、理系院生二人は初めての一人暮らしで自炊などお手上げ状態。犬居は器用に何でもできてしまう奴だが、俺は本当に簡単なものしか作れない。不摂生な状態になる前にと、俺たち男二人が「夕飯を食べさせてくれ」と一人暮らし五年目の宮瀬に頼み込むには、そう時間は掛からなかった。