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「あ、古賀。お前、どこ行くんだよ」
鞄を持って研究室を出ようとすると、後ろから犬居に非難めいた声を掛けられた。振り返れば、案の定、抜け駆けするなと言わんばかりの顔で、白衣を着たままの犬居がこっちを見ている。犬居の座っているテーブルの上には、今さっき撮ってきたばかりであろう菌の写真とそのレポート用紙が置いてある。
「ちょっと休憩。俺のやつまだできそうにないから」
「じゃあ、手伝えよ」
「やだよ。あほか」
呆れた声で返しても、犬居は諦めずに「逃げんな」と声を掛けてくる。逃げるもなにも、俺のレポートじゃない。研究室で犬のように唸る犬居に「じゃあな」と返して、研究室の外に出た。
廊下は、少しひんやりとしている。長袖のシャツ着てきて正解だったなと思いつつ、エレベーターまで廊下を歩く。ついこの間までは9月で、ばかみたいな残暑が続いていたが、それもだいぶ落ち着いてきた。
エレベーター前に着くと、隣の研究室の先生と出くわした。50代半ばの男の先生が「おお」と声を掛けてくれる。研究室が隣ということは、先生同士も気心が知れていて、その下にいる俺たち院生も顔を知っているというわけだ。「こんにちは」と挨拶を返して、すでにボタンが押されているエレベーターの前に立って、エレベーターが来るのを二人して待った。
「どうだい。研究の方は」
「んー。どうなんでしょう。何とかやってはいますけど、どうなのかなあ……」
曖昧な答えしかできない俺を見て、先生がおかしそうに笑う。曖昧な答えでも特に何とも思ってないみたいだ。
そこにエレベーターが到着して、先生が先にそれに乗り込み、後に俺が乗る。先生が一階のボタンを押してくれて、エレベーターの扉が閉まると、先生は笑って俺の方を向いた。
「大丈夫だよ。みんなそんなものだから。学生のうちは、結果よりも過程が大事なんだ。もし失敗しても、失敗も過程のうちの一つだよ」
優しい顔で優しい言葉を掛けてくれる先生を見て、ゼミ生やら院生が希望したがるわけだと再確認する。うちの研究室の先生だったら、絶対そんなことは言わない。いや、根本では同じことを言うんだろうけど、こんなに優しくはない。頷きつつそんなことを考えてたら、先生が「まあね、」と言葉を繋げた。
「彼はきついことも言うかもしれないけど、君たちの助けにはなってくれると思うから」
うちの研究室の恩師でもあるこの先生には、お見通しだったみたいで、少し苦笑いされてそう言われた。一緒に研究していて、どうしてこの先生からあの口の悪い先生ができたのか不思議でならない。先生と一緒になって苦笑いしていると、エレベーターが一階に着く音が鳴った。先生に促されて先に俺がエレベーターを降りて、先生が出てくるのを待つ。エレベーターを降りてきた先生とそのまま歩いていき、教務課に用があるという先生と棟の出口付近で別れた。
外に出れば、まだお昼少し前ということもあってか、さっきの廊下よりも暖かった。これくらいの気温が一番いいなと思いながら、食堂の方に足を向ける。まだ二時間目が終わってもいないこの時間は、キャンパスに出ている学生も少なくて、何となくゆっくりとしている。この空気が好きで、わざわざ研究棟に写真を取りに行かずにいたんだ。
大学院に進学して半年。理系の院生は、もっぱら研究室にこもりっきりになってしまうのだが、合間を見つけては授業のまだ終わっていないような時間に休憩に出ることにしている。前期に一度、やりすぎがたたったのか、ひどい風邪を引いたことがあった。朝を抜くのは当たり前で、昼ご飯を食べるのも食べないときの方が多かったし、夜なんて適当に済ませていた。大学院に進学して初めて一人暮らしを始めたのもあって、正直勝手が分かってないのもあった。あの時には、親だけじゃなくて宮瀬にも、そしてなぜかうちの研究室の先生にも思いっきり怒られた。というか、研究室の先生には、怒鳴られた。わざわざ家まで来て。
『自分の体調も管理できねー奴が研究者になれるわけねーだろ、このあほ! 完治するまで研究室来んじゃねえ』
という言葉とともにとりあえずの食料品が家に置かれ、ばたんっというでかい音をたててドアが閉められた。俺も、見舞いに来ていた犬居も、その様子に呆気に取られたのを今でも覚えている。それ以来、意識して適度な休憩を入れることにしている。まあ、わざわざ家まで来て食料品まで置いていってくれるくらいだから、うちの研究室の先生が良い人ってことは間違いないんだろうけど。
口の悪い先生を思い出しながら、欠伸を一つして、すたすたと人もまばらなキャンパスを歩いていく。食堂のところまで来て、向かい合うようにして建っている食堂の建物を見て、どっちにしようかと軽く悩む。一つは生協食堂で、二階建てのそれは上も下も生協なので、値段が安い。もう一つは上と下でばらばらになっている。こっちの一階がカフェテリアになっているので、今の時間はこっちの方が人が多い。それでも、二階の方はそうでもないだろう。基本的に生協食堂はあまり好きじゃないので、生協食堂ではない方に決めた。
まだ人が少ないであろう二階に上がると、入り口のすぐそばにあるテーブルセットに一人の人がいるのが目に入った。二階のこっちはカフェレストランになっていて、その入り口にはガラス製のドアがある。そして、すぐ向こうが店になっているにもかかわらず、この階段を上がったすぐのところに、一組のテーブルセットがあるのだ。それも、自販機とともに。学校の考えることは意味が分からない。
その意味も分からないところに、一人の女の人が座っていた。ローテーブルにはそこの自販機で買ったであろう缶コーヒーがある。変な人もいるもんだと思って通り過ぎようとしたが、そこに座ってる人に、どこか見覚えがあった。ぴたっと、足を止めてその人を見下ろせば、やっぱり、見たことのある人だった。先週だったかに図書館で会った、芹沢さんだ。
芹沢さんは缶コーヒーを手に取って、それを両手で持ったけど、それを飲むことはせずに膝のところでぎゅっと缶を握りしめている。見下ろしている俺に気付く様子はまったくない。
「芹沢さん?」
知り合いで、かつ、どこか疲れているような表情をしている芹沢さんの横を素通りすることもできずに、遠慮がちに声を掛けた。すると、芹沢さんははっとして、俺の方を見上げてきた。声を掛けられて初めて、ここが人の通る場所であることに気がついたみたいだ。
「あ、」
幸いなことに、芹沢さんは俺のことを忘れてはいないみたいで、声を掛けたのが俺だと分かると、ぺこりと軽く頭を下げてくれた。すぐに上がった顔には、変なところを見られたっていう気まずさが見てとれた。
「授業、ないの?」
俺も「どうも」と軽く頭を下げて返したところで、芹沢さんが缶コーヒーをテーブルに戻して尋ねる。
「はい。実験結果取りついでに、ちょっと休憩です」
「実験って……、ああ、そっか。理系だもんね」
物珍しそうな顔をして少しの間きょとんとした後、俺の専攻を思い出したようで、芹沢さんが納得したように頷く。その顔が、実験棟に初めて来た時の宮瀬と重なって、思わず笑ってしまった。芹沢さんもそれを見て小さく笑い、「なに?」と聞いてきた。
「いや、前に宮瀬も同じような顔してたんです。実験室見せろってうるさかったから、一回見せたら『なんかすごい』ってきょろきょろしてました」
「あー。でも、その気持ち分かるなあ。実験なんて、正直、高校か中学以来だもん」
「それも言ってました。あいつ、実験棟も俺のところの研究室も今は顔パスで入ってきますからね」
俺の言葉に、芹沢さんは「ほんとに?」と驚きながら笑っている。挨拶程度にしか会話をしたことがない芹沢さんには、優等生としての宮瀬のイメージが強いみたいだ。
自分のところの研究室のパソコンが古いだの、Wi-Fiが繋がりにくいだのと図々しいほどにうちの研究室に入り浸る宮瀬には、すでにうちの研究室の先生も諦めている。というか、先生と宮瀬は元から知り合いらしく、会えば何かしら嫌味の応酬状態だ。院生も宮瀬の存在は黙認していて、時折英語の論文やらの手伝いをしてもらっている。