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『皆さま、この飛行機はアメリカン航空、日本行き、第二便でございます。到着予定時刻は、土曜日、午後5時15分でございます』
フライトアテンダントのアナウンスを聞きながら、窓の外に目を向ける。ゆっくりと機体が動き出していて、滑走路に近付いていく。ターミナルビルには人が大勢いるのが見えて、こちら側には数機の飛行機とそれを扱う職員がいる。
大学院入学と同時に住んできたこの街、この国から、本当に離れるんだと、今さらながらに実感した。
***
大学時代の恩師から連絡を受けたのは、まさに私自身がそれを必要としていた時だった。『必要としていた』と理解したのは、その時からだいぶ後になってからだったけども。
恩師から連絡が入ったのは、年も越そうかという12月だった。
「お久しぶりですね。どうかしたんですか?」
『いや、なあに、年をとると、昔馴染みの声が聞きたくなるんだよ』
「またそんなことを。何か連絡があるから、こうして電話してきたんでしょう? 先生は昔からそうやって大事なことを後回しにしようとして、結局後になって慌てるんですよ」
『おお、おお。言うようになったじゃないか』
「はいはい。からかうのはいいですから。用件は何なんですか?」
『まったく、君も変わっとらんな。さて、用件だったか。そう、うん。芹沢くん、君、こっちに戻ってこないかい?』
「……はい?」
思わず、動かしていた手を止めた。
非常勤とはいえ、いくつかの大学で教鞭を取っていて、その時期はミッドタームのテストの採点で忙しい時期だった。おまけに、年度末に刊行する予定の共同論文に掲載する論文を書いている最中でもあって、文字通り、目も回るほどの忙しさだったのだ。
そんな中での、恩師からの電話だ。
正直にいえば、これほど迷惑な誘いはないと思った。若手の若手と言えてしまうほど、研究者として日の浅い自分だけど、それでもその時の私はしっかりと研究員の職を得ていたし、非常勤でも教鞭を取ってはいたのだから。
『君の努力とキャリアは分かっているよ。でも、考えてみてよ。年度末までに返事を聞かせてくれたらいいからね。もしOKなら、ぎりぎりでも私が推薦状を準備するよ』
簡単に喜んだりはしない私を悟ったらしい恩師が、電話の最後にそう言って、連絡はそれっきりになった。
***
あの時、あの連絡がなければ、今もまだ以前の職場にいたのだろう。それまでと何ら変わりなく同僚たちと過ごし、研究を続け、論文を書き、変わらない生活を盾にしてみじめったらしい自分を隠していたに違いない。
実際、私のことをみじめだと感じていたのは私自身だけで、他の同僚や友達がそれを感知することなどなかっただろう。ただ一人、私が自分をみじめだと感じたその瞬間に居合わせた友達を除いては。
去年連絡をもらってからの一ヶ月間での出来事を思い出し、それと同時に事実を知ってあんぐりと口を開けてこっちを見ていた友達も思い出して、少し笑いが漏れた。
飛行機の窓からは、陽気な光が差し込んでいる。当たり前だが、去年の冬とは大違いの気候で、時間は進んでいるんだなあと、呑気にも考えてしまった。
***
『I wish you a Merry Christmas !』
恩師からの連絡を受けた三日後、12月の二週目の初めに、このメッセージが添えられたカードが送られてきた。それが入っていた封筒には後ろに小さく『from S』と書かれてあるだけで、私の住所も差出人の住所も、消印さえもなく、月曜日のお昼休みが終わったときにそっとデスクに置かれていた。
『あらー? そのツリー、誰からよ?』
立体ツリーにもなるそのカードを飾っていると、同じセクションの同僚の友達がにやにやと笑いながら尋ねてきた。
『内緒よ』
『またそんなこと言って。なによ。去年の人と一緒なの?』
『どうかなー』
『もう。またそうやってはぐらかす』
去年ルームシェアしていたアパートに送られてきたカードを覚えていたらしい彼女が、しつこく送り主について追及してくる。
『だって、職場にプライベートは持ち込みたくないんだもん』
『にしたって、一年以上も隠し通してるのなんてあなたくらいよ』
『すごいでしょ?』
にっこり笑って肩をすくめれば、彼女は『もう』と笑って呆れる。
封筒の『S』という文字を見つめ、自然と微笑んでしまった。その途端、デスクに置いてあった携帯が震えた。発信者を見て、また口元が上がる。友達に合図をし、携帯を手に取って、セクションの外へと向かった。
『カード、見た?』
通話ボタンを押したと同時に、向こうが開口一番そう言った。
『見ましたよ。また可愛らしいのを選んだんですね』
『ああいうの、嫌い?』
『いいえ。好きですよ』
『よかった。26日、会える?』
『もちろん。あ、ごめんなさい。もう戻らないと』
『そうか。じゃあ、26日に。論文、がんばって』
『はい。誠一さんも』
電話を切った直後、同じセクションの男の同僚が出てきて、簡単に挨拶をする。研究所の外へと出ていく同僚を見送って、自分の研究室へと戻った。
誠一さん――衣川誠一さんとは、一年ほど前からの関係だった。今年の12月で一年だろうか。知り合ったのは、もっと前。私が、博士後期課程だったころ。そのころは、まだ、ただの学生と知り合いの教授という関係でしかなくて。それが変わったのは、博士課程最終年のころだ。
『あ、そうだ。アオイも、年末のニューイヤーパーティー行くでしょ?』
携帯片手にセクションに戻ったところで、先ほどの友達(まだいた)に声を掛けられた。
今年ももう数週間で終わる。毎年、研究所の面々が家族やパートナー、友達を伴って年越しのパーティーをやっていた。まだ一年目だが、博士課程のころ研究所のリサーチアシスタントをしていた私も、目の前の友達と一緒に去年のパーティーに出席している。
『うん』
『よかった。あなたが来ないと、私の独り身が際立っちゃう。ま、あなたは独り身じゃないんだけど』
『はいはい』
友達の茶化すような物言いに笑って相槌を打ち、自分のデスクへと戻る。友達も自分のデスクへと戻るのかと思ったら、そのまま空いている私のデスクの隣に座っている。
『今年は、セーイチも来るんだって。ていうか、セーイチの家でやるらしいわよ』
ノートパソコンを開きかけていた手が、一瞬止まる。幸いにも、友達はそんな私に気付いていなくて、隣のデスクに置きっぱなしになっていた大学の会報を手にしている。
『そうなんだ。そういえば、新しく引っ越したんだってね』
『そうそう。だから、それでせっつかれたのよ。きっと』
動揺が声に表れないように、何でもない風を装って言う。
『パーティー用の服、今度の週末一緒に買いに行きましょ』
『いいわよ』
友達は私の答えに満足したらしく、『よし』と一声あげてから、ソファから立ち上がった。
戻っていく友達に手を振って、ようやくノートパソコンを開ききる。すぐに、溜め息が漏れた。
きっと、誠一さんは、26日に会ったときにそのことを言う予定なのだろう。『今年は、自分の家でパーティーをする』のだと。だけど、それよりも早く、私はそのことを知ってしまった。もっと早く、誠一さんからそのことを聞いていれば、友達からの誘いを断っていたのに。