其の男の青⸺回想
「さて、と…」
椿と桂が道場に出かけたあと、島谷は皿を洗おうとシンクに向かった。
桂は、それはそれは丁寧にエッグベネディクトを平らげてくれたようで付け合せのサラダまできれいになくなっていた。
「お気に召したようでなにより」
と呟くと今度は椿の皿を見る。
黄色い文字が目に入る。
プチトマトが残されていて、そこに小さくfuck!の文字。
フォークの先に卵の黄身をつけて書いたであろうそれは、薄暗いシンクでテラテラと存在を主張していた。
「食いたいか、食いたくねえのか、それだけの話だろ?」
そう言った椿の顔を思い出すと島谷はクッと小さく笑い、「椿ちゃん、まーだトマト食べられないんだねぇ…あの子はほんとに…」とぽつんと残されたそれをつまみ上げて口の中に放り込んだ。
皿洗いが一段落しさて仮眠でもと2階に戻ろうとして⸺島谷はずらりと酒の並んだ棚の前で立ち止まった。
バーともなるとありとあらゆる酒は取り扱っている。
「あーあー。僕のとっときのマッカラン…随分減っちゃって…」
先日椿にタバコを沈められた可哀想なマッカランの瓶は残り1/3というところだ。
島谷はその中で日本酒の一角で歩みを止め、1本ずつ瓶をどかしてゆく。
そこには、日本酒に守られるように1枚の写真。
晒を巻き、たおやかな黒髪を結い上げた女性。
気の強そうな瞳。スッと通った鼻筋。
その面差しは椿にそっくりであった。
島谷は写真を手に取ると「百合子さん⸺」と呟きそっと口づける。
「椿ちゃんは、強くなりましたよ。だけど、まだ脆い。どんなに強がってもまだ19歳だ。でも僕が、僕がきっと守ります⸺」
それだけいうと島谷はスウェットの袖をぐいとまくり、そこに刻まれたウロボロスにも口づけた。
4年前。新東京国際空港。
あの人そっくりのたおやかな黒髪とハッキリとした目鼻立ち。目の色こそ違っていたものの、ひと目であの人の娘だと分かるその子は不安そうにキョロキョロとあたりを見回していた。
季節は秋。薄手のセーターにタータンチェックのミニスカート。革のジャンパーを羽織ったその少女は流れてゆく人々の中でもひときわ大きく⸺それでもどこか儚さを抱いていた。そして、自分の持つ紙に書かれた「WELCOME TSUBAKI」の文字を見るなり駆け寄ってきて⸺縋るように抱きついてきた。
「Jun?Jun Shimatani...?」不安そうに見つめる瞳。
「That's right. I'm Shimatani Jun. It's safe here. Everything's alright now.」
島谷がそう言うと少女は抱きつく腕に力をぎゅっと込めた。
あれから、もう4年。
「時のすぎるのは早いねぇ…僕もちょっと老けたし、椿ちゃんはあんなんなっちゃったし。」
島谷はそうひとりごちると酒を元の位置に戻し、おもむろにスウェットを脱ぐ。
その右脇腹に青々と1輪の花⸺椿の花が彫られていた。
「あの子は、あの子だけは僕が⸺もう、誰かを失うのはごめんだ」
その目には確かな決意と、今は亡き人への慕情が滲んでいた。




