椿
「⸺おい。起きろよ。」
その声でハッと桂は飛び起きた。
「よく寝てたな。もう昼近えぞ。」
⸺昼?
「やばいっ、会社!!!」とネクタイを締め直す桂に椿は壁にかかったカレンダーをコンコン、と叩いて見せる。
「潤から日本の事情ってのは聞いてたけど…シャチクってのは土曜も働くのか?」
そうだ。昨日の歓迎会も花金だからやったんだった。
そんな単純なことも忘れていた。
椿は呆れたようにはぁ、とため息をつくと「飯、食うだろ?潤が起こしてこいって」とだけ言って階下へ降りていった。
「やぁ。熟睡していたから起こさないでいたけど、まさかこんな時間まで寝てるとはね。」
昨日のラフな姿のままの島谷がフライパン片手に桂に話しかける。
「あの、俺⸺すみません。泊まらせてもらった上にご飯なんて…」桂は申し訳なさそうにペコリ、と頭を下げる。
「簡単なものだけど、どうぞ」
と並べられたのはイングリッシュマフィンにとろりととろけたポーチドエッグ。チーズとベーコンも挟まってホカホカと湯気を立てている。いわゆるエッグベネディクト、というやつだ。濃厚なチーズとスパイシーなベーコンの香りが鼻孔をくすぐる。
「うわぁ…俺、こんな朝ごはん久しぶりです…いいんですか?」と言う桂に椿がぶっきらぼうに返す。
「食いたいか、食いたくねえのか、それだけの話だろ?」
そう言われて桂は慌ててフォークを手にして「いただきます」と食べ始めた。
「うっわ…うま…島谷さんこれめちゃくちゃ美味しいです。すごい…」
卵の滋味。チーズのコクとベーコンのカロリーが腹を満たしていく。はぐはぐと子供のように食べる桂を見ると島谷は、
「これでも一応、お店のオーナーだからね。これくらいのことはできるよ」と笑いながら言った。
昼過ぎ。
「あの、お世話になりました!」
そう言って桂はおずおずと五千円札を取り出す。
島谷はそれを制すと、
「いいのいいの。椿ちゃんが君に迷惑かけたのがそもそも悪いんだから。それは受け取れないよ」と笑いながら言った。
「でも…!」と食い下がる桂を見てしばらく島谷は何事か考えていると、「そうだ!」と口を開いた。
「特に用事がないなら、椿ちゃんのトレーニングに付き合わない?いつも僕が付き合うんだけど正直疲れるから、それがお礼代わりってことで。」
「おい…違ぇよ。ミットの付け方はこう。」
椿は桂の背後から腕を取り構えの形をつくる。真っ赤なボブをきゅ、と結い上げて道着に身を包んだ椿はどこか凛として⸺その名前の示すとおり椿の花のようだ。
「相手がズブの素人じゃなぁ…とりあえず受け身教えっから、アタシの言うとおりにしてみて」と言うなり椿の「シッ!」という声と共に右脚が飛んできてミットにスパン!と切り裂くような音を立てる。桂はその勢いに思わずよろける。
(島谷さん…これは俺には荷が重いです…)
バーから少し離れたところにある道場。と言っても寂れていて人は椿と桂の二人しかいない。否、それはもう跡地⸺廃道場なのだろう。壁に残る名札のあとは日焼けしてその輪郭をくっきりと表している。
「この子、空手有段者だからね。」とニッカリ笑いながら言った昨夜の島谷の顔を思い出す。
「あー、だめだな。これじゃ稽古になんねえや」と椿が頭を掻く。
「すみません…」うなだれることしかできない桂。
「ま、いいや。」椿は短くそう言うと畳にゴロンと寝転がった。
「畳っていいよな。グランマから教わったんだ、空手。アタシの名前もそう。椿の花は花びらが散るんじゃなくて、花ごとぼたりと落ちる。武士道の花なんだとさ」
桂も畳に寝転がる。少し黴臭い匂いが鼻につく。
「かっこいい、ですね。羨ましい」
そう言うと椿は寝転がったまま、「なあ」と短く言葉を発してから「その、敬語っての?やめてくんねぇ?なんか背中がゾワゾワする。桂はアタシより年上だろ?名前もさん付けしなくていい。フランクでいいよ。て言うかそうしろ。Ok?」と一気にまくし立てた。
「わかりま…わかった、椿さ…じゃない、椿。」桂がやっとそう返すと椿はニカッと笑い、「そー、それでよろしい。」と言った。
(あ…)
その表情は深夜にクラプトンを聴かせてくれた年相応の少女のものだった。
「あの俺、ごめんなさ…じゃない、ごめん!踏み込んでいいところとそうじゃないところ、わきまえてなくて…やなこと聞いちゃって…ごめん…。」桂がそう謝ると椿はカラカラと笑って「別にいい」と短く答えた。
そして「その代わり、桂。お前たまに遊びに来いよ。気に入った。クラプトンも嫌いじゃないならまだ聴いてほしいのがたくさんあるんだ」
窓から差す陽光に埃がチラチラと舞う。
桂はひと呼吸おいて、答えた。
「うん、喜んで」




