煙と少女
(⸺ここは…?)
桂がゆっくり目を開くと薄暗いライトの光が飛び込んできた。思わず顔を顰める。額に冷たいものを感じ手をやると、濡れたタオル。
そっと起き上がろうとした瞬間だった。
「あ、気がついた?」男性の声。
辺りを見回すと無機質な打ちっぱなしの壁に積まれたオークの樽に、ゆったりと流れるレコードの音。
使い込まれているがピカピカに磨き上げられたカウンターに積まれたグラスが景色を歪めて映している。
そのカウンターの向こうにいる男性が、自分に向かって申し訳なさそうな笑みを浮かべている。
年の頃は30代くらいだろうか?茶色い長髪を後ろに束ねて、黒いベストに蝶ネクタイをしている。
「あの、ここは…?」桂が恐る恐る尋ねると男性は名刺を差し出した。
「BAR King’s Cross Jun Shimatani」
黒く光沢のある紙に金色で綴られた文字。
「僕は、島谷潤。一応ここのオーナーだよ。椿ちゃんから連絡をもらって君を担いできたのも僕。びっくりしただろ?」
と、男性⸺島谷はカウンターから出てきて桂の顔を覗き込む。その顔にはこの歓楽街でバーを経営してきた圧倒的な経験と夜の世界に生きる一人の雄⸺それが滲み出ていた。
「椿…ちゃん?」おずおずと桂が尋ねると島谷はカウンターの向こうの薄暗い階段に向かって声をかけた。
「椿ちゃん!君がびっくりさせちゃった子、起きたよ!とりあえずは謝りなさい!!」
ガチャリ、とドアの開く音。
先刻聞いたゴツゴツというブーツの音。
そしてフワッと漂うムスクとこれは、タバコ⸺?
「っせーな、声がでけえんだよ」
先程の少女がタバコを咥えながら降りてきた。
「椿ちゃん。何度も言ってるけどここ日本では⸺」と島谷が言うのを遮り少女⸺椿はジロリと島谷を睨みつけ「あーあーあー!ハイハイ。」となみなみと満たされたグラスにタバコを沈めた。
「あー!!僕の仕事終わりの一杯が!!」
と嘆く島谷に椿は、
「いちいち説教臭い潤がわりーんだろ。向こう向こうじゃプロム・パーティ後のドラッグも乱交も当たり前だっつーの。」と吐き捨て、棚を漁るとロリポップ・キャンディを2つ取り出し一つは自分の口に。そしてもう一つを桂に差し出した。
「ビビらせて、悪かったよ…」
バツが悪そうにそっぽを向いたままぐい、とキャンディを押し付けられて思わず受け取る。
泣きそうな顔で台無しにされたグラスを洗いながら島谷が口を開く。
「この子⸺椿ちゃんは僕のお師匠様の娘さんでね。ちょっと事情があって4年ほど前から預かってるんだ。口も態度も悪いけど、本当はいい子なんだよ」
そう言われて桂は椿の方を見る。
映画「レオン」のマチルダのようなボブを真っ赤に染めて、顔は背けたまま。そして右肩にはさっき見た球体人間の入れ墨。
「九条・ライヤ・椿だ。あんたは?」
いきなり問いかけられてどぎまぎとしながら桂はやっとのことで言葉を紡ぐ。
「あ…川嶋桂…です…」
「ふーん」と素っ気ない返事のあと「ケイ、ってどういう意味?」と尋ねられる。
「えっと…木偏に…土2つで…植物のカツラっ、てわかりますかね…」とたどたどしく答えると椿は「知らね。」と吐き捨てるように言った。
(聞いといてなんなんだ⸺)
と桂が思った瞬間、島谷が椿を諌める。
「椿ちゃん。脅かしといて、しかも自分から聞いといてそりゃないでしょ?」
椿はプイ、と横を向いたままだ。
島谷は小さなため息をついて桂の方に向き直ると、
「ごめんね、桂くん。いい名前じゃないか。カツラの木はハート型の葉っぱに、樹皮は甘い香りがする。何だか君に似合うよ」と微笑みかけた。
(俺に、似合う…)
ハートも甘い香りもその自分の外見を示しているようで嫌いなこの名前。
桂が思わず顔をしかめると、椿が島谷に向かいこう言い放った。
「やめろよな。そうやって型にはめて⸺アタシは外見で物を言う奴が大ッキライだって言ったよな、潤」
その目はキッと、自分より遥かに年上の島谷を睨みつけている。
(この子⸺椿さんは…俺の心でも読んだのか…?)
桂がぼんやりとそんなことを考えていると椿がくるり、と振り返り、「で、どーすんの?」と時計を指差した。
深夜2時すぎ。山手線すら止まってしまっている。
「泊まってく?狭いし、汚ねぇけど。」
その申し出に桂はただ戸惑うばかりだった。




