1話
§
黒板に、白いチョークでシンプルな数式が書かれている。
y=ax^2
数学の田中先生が、、まるで世界の真理を説くみたいに、教壇で数式をコツコツと指で叩いた。
「いいか、よく聞け。ここは中間テストに出すぞ。このyはなんだ?」
田中が適当に目が合った生徒を指差して質問すると、最前列の女子が答えた。
「不安の大きさです!」
彼女は恋愛偏差値が学年トップのエリートだ。
「正解だ。ではxは?」
また別の生徒を指名すると、その女子もまた即答した。
「メッセージの返信を待っている時間(分)です!」
すると田中は頷く。
「よろしい。では、定数aは?」
田中はニヤリと笑い、窓際で頬杖をつく俺の方を見た。
「おいカケル、答えてみろ」
俺は気怠げな気持ちで、田中の言う通り、解答する。
「・・・・・・相手への、依存度です」
「その通りだ」
田中は満足して黒板に向き直り、熱弁をふるう。
「そうだ。恋の不安(y)は、待ち時間(x)の二乗に比例して増大する。つまり、たった五分の返信が遅れただけで君たちの心の平穏は二十五倍の速度で崩壊していく訳だ。とくにaが大きい奴――つまり、依存度の高い奴は、あっと言う間に自爆するぞ」
それを受けて教室がドッと沸いた。 他人事のようにヘラヘラ笑うクラスメイトを冷めた目で見ながら、俺は溜め息を吐き、手元のスマホを机の下でタップする。画面には、今朝七時三十分に送信した、たった一行のメッセージ。
『今日、放課後ヒマ?』
幼馴染みの女の子――ミオに送った一言。
たったこれだけ。スタンプもなし。 我ながら完璧な、重さを感じさせないジャブの筈だった。けれど、現在時刻は午後一時。既読はつかない。 経過時間は役三百三十分。
x=330
計算するまでもない、俺の脳内グラフのyは、既に大気圏を突破している。
§
グラウンドでは、柔らかな春の日差しの中、体育の松本先生がふわりと笛を鳴らした。
「さぁ、お前ら。今日は『二人三脚』の時間だ! タイムを競う必要はない。ペアになった人の『疲れ』や『高揚』を感じ取り、お互いの心拍数を合わせるんだ!」
松本は溌剌とした声で、さらに話を続ける。
「相手の呼吸が乱れたら、歩幅を縮めて速度を落とす。相手が転びそうになった時に備えて、支える準備をする。相手が不安そうなら声を掛けて安心させる。そうやって相手の気持ちに寄り添ってゴールを目指すんだ。これは、二人の中間のリズムを見つめる共同作業だ。決して独りよがりになるんじゃないぞ!」
松本の話が終わると、俺たちは男女でペアを組む。出席番号順で、隣の女子――確か、図書委員のフミオさん――とペアになった。
お互いの足首を紐で結び、肩を組む。
「カケルくん、よろしくね? それと私、運動苦手だから、その・・・・・・」
フミオさんはモジモジしながらなにを伝えようとする。俺はそれとなく察して、言葉の続きを引き継ぐ。
「大丈夫、ゆっくり走ろう。タイムは気にする必要ないんだから」
するとフミオさんは、ホッと安堵したように、控えめな笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。
目の前の相手となら、すぐに返信がやって来る。
フミオさんの「ありがとう」を聞きながら、俺はまだミオから返信が来ない事を考えていた。
隣ではフミオさんがスマートウォッチで自身の心拍数を測る。
「私は心拍数七十二。カケルくんは?」
「えぇと・・・・・・」
声を掛けられてハッとし、俺はすぐに自身のスマートウォッチで心拍数を確認した。するとそこには――百五と表示されていた。
「カケルくん、大丈夫? かなり心拍数高いけど・・・・・・」
「あぁ、ちょっと考え事してて・・・・・・大丈夫、ちょっと深呼吸するから」
「うん、落ち着いて」
そう言ってフミオさんも一緒になって深呼吸をする。優しい声で寄り添ってくれる彼女に、俺は少しだけ申し訳ない気持ちになる。彼女は俺の事を気遣ってくれているのに、俺はミオの事で頭が一杯なのだ。
せめて今だけは、彼女の足を引っ張らないようにしないと。
俺は呼吸に集中して、ミオの事を頭から排除しようと努める。
「それじゃあ、位置について。用意――」
スタートラインに立つと、松本が笛を鳴らし、合図をかけた。
「――スタート!」
俺たちは出足ゆっくりで、お互いのリズムを確認する、が。
「っ・・・・・・!」
開始早々に歩調を崩した。
俺のペースが少し速かったのか、フミオさんは軽く足を取られる。
俺はなんとかフミオさんに歩み寄ろうとペースを落とすが、彼女のペースに合わせようとすればするほどに噛み合わない。
なぜだ、と心の中で思いながら俺は焦る。不安が消えない。まるで、ミオの返信に囚われた足枷が俺の邪魔をするみたいだった。
結局、俺はフミオさんの優しさを裏切って終始、歩調の合わない状態でゴールする羽目になった。
ゴールを迎えると俺たち二人は芝生の上に転び込んでしまった。
「いたた・・・・・・カケルくん、大丈夫?」
フミオさんは転んですぐに、俺の心配をしてくれる。
「ごめんフミオさん、俺が足引っ張ったせいで・・・・・・」
優しく手を差し伸べてくれる彼女の優しさが、あまりに申し訳なくて、俺は目を合わせられないままそう言うと、彼女は尚も気遣いを見せてくれる。
「そんな事ないよ。私もちゃんと合わせられなかったし。それにこれは二人三脚だから、ペースが合わなかったのは二人のせいだよ」
そう言ってはにかむフミオさんは、まるで春の日差しのように柔らかい。 すると、俺たちの前に松本が歩み寄ってきた。
「二人ともナイスランだったぞ。転ぶのは、それだけ相手を知ろうと必死になった証拠だ。次はもっと、自分の心をからっぽにして走ってみようか」
そう言って声を掛けてくれる松本の声が、俺の胸に突き刺さる。
そうだ、俺の心はからっぽじゃなかった。ミオの返信が来ない事への不安で頭が一杯だった。
松本の言葉も、フミオさんの気遣いも、全部が温かくて、正直だ。だからこそ申し訳が立たない。相手に親切にされればされるほど、ミオの返信一つに一喜一憂し、自分の事で頭が一杯になり、ペアの子を転ばせてしまった事にひどく罪悪感を覚えるし、そんな自分がイヤになる。
§
放課後。ようやく学校が終わり、家路に就く。最寄り駅で電車に乗り、乗換駅で降りる。
ミオとは別の高校に進学したから、会えるとしたらこの駅だけだ。
俺は待合室で、いつもの席に座って、スマホを見る。通知はゼロ。未だ、ミオからの返信はまだない。 それを見て、俺の胸の奥に黒い感情が渦巻く。
もしかして俺、なにかした? それとも俺の連絡なんて取るに足りなくて返信を後回しにしてる? 俺なんてもう、過去の友達? 幼馴染みなんて俺だけがしがみついた肩書き?
不安が声となって、俺の心にイヤな言葉を投げかける。
ミオとは、幼稚園の頃からの幼馴染みで、小学校、中学校とずっと一緒にいた。だから高校に進学する時、初めてバラバラになって俺は不安になった。
一日の大半を、ミオと顔を合わせずに過ごす事に慣れていないから、高校に進学してからの俺はひどく脆くて、不安定で、心許ない。
怖い。
もしかしたらミオにとって、俺はもう「過去の友達」でしかないのかもしれない。高校では新しい友達を作って、なんならボーイフレンドを作って青春を謳歌しているのかもしれない。
・・・・・・ミオに、彼氏。想像しただけでゾッとした。でも、ない話じゃない。あいつは飾り気がなくて、根が明るいから、一緒にいて楽しい。それに顔も可愛い。とくに、くしゃっとした子犬みたいな人懐っこい笑顔がとびきり――。
「っ・・・・・・」
脳内でミオの笑顔が浮かび上がる。散々、頭の中で思い描いたミオの笑顔は、ほぼ実物と遜色ない解像度で俺に笑いかけてきて、そのリアリティの高さに胸が締め付けられる。
すぐそこに笑ったミオがいるのに、現実では遠く離れた場所にいる。
現実と理想のギャップに、俺の胸ははち切れそうだ。
俺はたまらず、視線を変えた。すると不意に、待合室の端に置かれた古い木製の本棚が目に留まった。
「ご自由にお読みください」
掠れた文字で書かれた、いわゆるシェア本だ。
各駅停車しかないこの世界では、待ち時間が多く、時間つぶしの本が待合室に置かれている。普段、本を読む習慣がないからあまり気に留めていなかったけれど、何気なく本棚を眺める。そこには、背表紙が日焼けした文庫本が数十冊、無造作に突き刺さっている。
その中でも一冊だけ、妙に生命力を放っている本があった。
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』
あまりに直球で、ふざけたタイトルだ。
俺は一瞬、眉根を寄せるが、その直接的過ぎるタイトルが逆に興味を引いて、自然と手を伸ばしていた。吸い寄せられるようにその本を抜き取り、ページをめくった。
すると、
『愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになって欲しい』
「・・・・・・は?」
俺は眉を顰めた。
『僕は世界中の人たちが好きだ。・・・・・・なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ』
活字が上滑りしていく。
愛は祈り? 皆を愛する?
「なんだ、これ・・・・・・」
ふざけるなよ。俺は今、たった一人の返信が来ないだけで一喜一憂し、授業もままならなかったのだ。
こんなの、単なる綺麗事だ。
世界中の人なんてどうでもいい。
ミオが他の誰かと「心地よい場所」にいる可能性なんて考えたくもない・・・・・・。
この作者はきっと、y=ax^2の苦しみを知らないんだ。あるいは、ただのウソつきだ。
「・・・・・・無理だ」
俺は本を閉じた。
ここに書かれていた言葉は、今の俺には毒だった。理想と現実のギャップに、一層自分が惨めに思えてくる。
俺は立ち上がり、本を棚に戻そうとしたところで、ふと思い立ち、カバンから黄色い付箋を取り出し、ペンを走らせる。
『いつか俺も、こうなりたい』
それは精一杯の強がりであり、敗北宣言だった。この本は、俺には早過ぎた。
黄色い付箋を一ページ目に貼って、俺は目に留まりやすいよう、一番上の棚に本を戻し、ベンチに座り直す。
「あ、カケル!」
――直後、待合室の扉が開くと、すぐに名前を呼ぶ声がした。
俺は顔を上げると、思わず立ち上がっていた。
「ミオ・・・・・・! お前っ」
「え、なに。どうかしたの?」
ミオはキョトンとした顔で、俺を覗き込んでくる。そのぬけぬけとした態度に、俺は思わず腹が立つ。
「なに、って。今朝、メッセージ送ったのに、なんで返信なかったんだよ」
「え、そうなの?」
ミオはあっけらかんとした態度でそう言った。まるで悪びれた様子はない。俺はなんだか調子が狂う。なんだこれ。
が、すぐにミオは弁解する。
「ごめんごめん。今日さ、朝急いでてスマホ家に忘れちゃったんだよねー。一日中デジタルデトックスだったわ。超スッキリしたわ!」
「は・・・・・・?」
忘れてた?
嫌われていた訳でも、どうでもよかった訳でも、他の友達、彼氏と遊んでいた訳でもない。
ただの、うっかり。
俺が今朝から育てていた不安(y)は、その一言で呆気なくゼロになった。
力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
「なんだよ、そういう事かよ・・・・・・
」
「え、どうしたの? なんで泣きそうな顔してんの?」
「うっせぇ。高校生にもなって朝寝坊すんなよ」
「なにそれひっど! むしろ電車通学で早起きしなきゃいけなくなったから仕方ないでしょっ」
「いやお前、小学校、中学校の頃からずっと寝坊癖あったろ」
「家が近いと逆に安心して遅刻しちゃうの!」
開き直るミオ。なんだそれ、じゃあ通学時間関係ないじゃん。
「てゆうかなに、カケルなんか用事あったの? 急用?」
するとミオは、真面目な顔になって俺が連絡を寄越した理由を訊ねるから、俺は少し気まずくなる。
「いや、別に大した用じゃないけど・・・・・・ただ、『放課後ヒマ?』って」
俺はおずおずと切り出すと、ミオは一瞬目を丸くして、すぐに声を立てて笑った。
「ははは、なにそれそんだけ! てか今、会えてるじゃん。いいよ、ヒマだし、どっか寄り道してく?」
ミオは屈託なく笑った。
そのあっけらかんとした笑顔に、俺は悟る。
ミオは今日一日、スマホのない世界で誰とも繋がらずに、ただ目の前の時間を楽しんでいたんだろう。それこそ、あの本に書いてあったみたいに「心地よい場所」で。
俺は本棚を振り返った。そして、さっきの本に目をやり、呆気ない気持ちになった。
まぁ、いいか。
俺にはまだ、あの「祈り」の境地には到底辿り着けない。でもいつか、あんな風にミオの自由を丸ごと愛せるようになれたらいいなと思う。そして、あの本が俺みたいな奴を導いてくれたらいいと思う。そしてあわよくば、俺の一言が誰かの心を軽くする手助けになれたら、言う事はない。
「お腹空いたし、マックは?」
「いいね、賛成!」
俺たちは並んで歩き出した。手は繋いでないし、心拍数は測っていないけれど、俺の胸が大きく高鳴っているのを感じる。けれどそれは、体育の授業で感じた心拍数のそれとは違い、心地よい心音だった。




