プロローグ
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その日、日本という国から「数字」が消えた。
国会議事堂の本会議場の演壇に、私は立つ。眼下には無数のカメラのレンズと、記者たち。そして中継カメラの向こうには、一億二千万人の「恋人たち」がいる。
私はネクタイを緩めた。堅苦しい形式はいらない。
マイクを握る。鉄の冷たさだけが、ここが誠司の場である事を思い出せる唯一の感触だった。
「国民の皆さん。――いえ、僕の愛する皆さん」
第一声がスピーカーを通した瞬間、会場がザワついた。
「総理、原稿を!」
秘書官が囁くのが聞こえたが、私あの手元の分厚いファイルを――経済学者たちが夜を日に継ぎ作った『今後十年の成長戦略』――を、躊躇なく破り捨てた。
白い紙吹雪が舞う。それはまるで、効率主義への辞表のようだ。
散り散りになった原稿には、失業率をコンマ数パーセント下げる為の手順が記されていた。経済学者たちが編み上げた「正しい知識」を、しかし私は拒んだ。
筋の通った論理は、確かに国民を納得させる事が出来るだろう。たとえ結果が出なくとも、筋道が正しければ「仕方ない」と諦める理由になる。
だが、納得は満足ではない。
果たして、国民は納得など求めているのだろうか。
筋の通った説明をされ、満足のいかない結果に「仕方がなかった」と首を立てに振る事。それが、国民が政治に託した希望の筈がない。
国民が真に求めているのは、妥協の為の理屈ではない。
「理想の体現」そのものだ。
だから総理として真に目指すべきは、国民に「納得」を与える事ではなく、この国に生まれ育った事に心から「満足」してもらう事だ。
「あぁ、生きていてよかった」と心から満足出来る瞬間。
それこそが、政治が目指すべき唯一の百パーセントではないだろうか。 だから私は、知識という冷たいメスを捨て、感情という血の通った手のひらで国民の明るい未来を開いてみせよう。
「正しい日本」ではなく、「愛おしい日本」を。
私は意を決して、自分の気持ちを表明する。
「今日、私は三つの『サヨナラ』を宣言します」
震える声を、腹の底から追い出し、言葉を続ける。
「一つ。GDP(国内総生産)とのサヨナラです。今日からこの国の豊かさは、生産性では測りません。代わりにGDL(国内総愛量)を指標とします。どれだけ儲けたかではなく、どれだけ人に優しく出来たか。それが、明日からの日本の偏差値です」
記者席からフラッシュが焚かれる。怒号のような質問が飛ぶが、私は止まらない。
「二つ。通過『円』とのサヨナラ。明日から、パンを買うのに必要なのは五百円玉ではありません。店主への『ありがとう』という言葉と、笑顔です。あなたが誰かに親切にすれば、あなたの人望口座に徳が貯まる。その貯まった人望だけで暮らせる国にします」
そして三つ目――。
「最後に、急行列車とのサヨナラです」
会場が静まり返った。意味が分からない、という顔だ。
「私たちは急ぎ過ぎました。目的地に早く着く事だけを考えて、窓の外の景色も、隣に座った人の涙も見落としてきた。だから、決めました。明日から、日本中全ての電車を『各駅停車』にします。新幹線もリニアも廃止。全部、ゆっくり走ります」
「総理、正気ですか! 経済が停滞します!」
最前列の記者が叫んだ。
私は彼を見て、にっこりと微笑んだ。
「停滞上等です。だって、好きな人と一緒にいるなら、電車は遅ければ遅いほどいいでしょう?」
それから、世界は一変した。
『日経平均株価』という無機質な数字を点滅させていた電光掲示板には、新しい文字が浮かび上がる。
【現在の全国ハグ回数:12,450,221回】
そして、テレビ画面に映る天気予報士は気象図を差しながら、こう話す。
『今日の天気です。関東から西日本にかけては晴れるところが多いでしょう。一方、北日本では雲が広がりやすく、ところにより恋の模様です。予想外のときめきには、十分ご注意ください』
私は高らかに語る。
「さぁ皆さん。おはようの挨拶はハグで。喧嘩をしても、寝る前には手を繋いで。効率なんていう野暮な言葉は、教科書から消しました」
これは、政治ではない――一億二千万人に宛てたラブレターだ。
法律という名を借りた、愛の告白だ。
こうして、世界で一番優しくて、世界で一番効率の悪い国が生まれた。




