第1話 暇つぶしには、ちょうどいい。
もう何百年も前のことだ。
俺は一度、世界を救った。
けれど今、その世界で俺の名前を覚えている者は、たぶんもういない。
それでもいい。
俺はただ、また少し歩いてみることにした――
そんな、ひとりの魔法使いの話だ。
そろそろ、何か始めてみるのも悪くないかもしれない――そんなことを思ったのは、数日前だった。
俺は、かつて魔王を討った魔法使い。
レイン・アルディス。
世界を救ってから三百年。隠居生活も、もう十分すぎるほど長かった。
山で静かに過ごしたり、古い魔道書を読み返しては意味もなくニヤついたり。
誰にも邪魔されず、気ままに日々を送る生活は、悪くはなかった。訳あって景色には事欠かなかったが、それでも、不思議と飽きが来るものだ。
英雄と呼ばれたこともあるが、そんなものはどうでもいい。
一つの時代が終わって、俺も静かに身を引いた。それだけのことだ。
「暇だな……なんか始めるか」
そんなふうに呟いた頃合いで、ふと耳に入ったのが、「最近また魔王が復活しそうだ」という噂だった。
もっとも、それ自体は珍しい話じゃない。
魔王が復活するかもしれない――そんな話は、昔から何度となく流れては消えてきた。
少し強い魔物が現れただとか、空が不気味に染まっただとか、誰かが悪夢を見ただとか。
人々の不安が形を取り、やがて“魔王の影”として語られるだけのこと。
だから今回も、どうせ大したことはないだろうと、最初は思った。
けれど、なぜだか今回は、少しだけ気になった。
本能か、偶然か、それともただの気まぐれか――自分でもよくわからない。
でも、もし万が一の事があるのなら、そのときはまた止めればいい。それだけのことだ。
とにかく今は、新しいことをしたかった。
そういうわけで、俺は冒険者になってみることにした。
職業欄には、気まぐれで「剣士」と書いた。
魔法使いと書くと、いろいろと面倒が起こりそうだったからだ。別に隠すつもりはないが、名乗る理由もない。
まぁ、しばらくは剣でも振ってみようと思う。
――というわけで、今、俺はギルドの受付に立っている。
冒険者ギルド・アレン支部。
地方都市にある、そこそこ大きな支部で、魔物退治から荷物運びまで、なんでも屋のような依頼が集まる場所だ。
看板が少し傾いているのはご愛嬌。受付嬢の対応が良いという噂だけは聞いていた。
扉を押すと、ちょっとだけ重たい木の感触と、わずかにきしむ音が返ってくる。
俺がアレンのギルドに足を踏み入れると、まず目についたのは、受付横に掲げられた手描きの横断幕だった。
『ようこそ! だいたい三百年くらい記念・勇者と魔法使い討伐祭!』
俺は無言でその文字を眺めた。
――記憶が正しければ、討伐の年はもう少し後のはずだ。あと、これだと俺たちが討伐された側に見える。
だが言うだけ無駄だろう、そんな空気だった。
「……帰ろうかな」
そう呟いた直後、
受付嬢がにこやかに声をかけてきた。
「ようこそ! ちょうど今、記念キャンペーン中なんですよ。あの有名な勇者ロアと魔法使いレインが魔王を討ってから、ええと……だいたい三百年くらいらしいってことで」
「……そうか」
「はい、こちら登録特典の記念缶バッジと、“討伐三百年うちわ”になります!」
俺はバッジとうちわを無言で受け取る。
うちわには、“偉大なる魔法使いレイン・アルディス!”と大書されていた。しかも似顔絵がついていたが――似ていないどころか、そもそも誰も見たことがないはずだ。
うちわと缶バッジを持って受付カウンターに向かうと、別の受付譲がこちらに気づいて、にこやかに笑いかけてきた。
「冒険者登録ですか?」
「ああ、手続きを頼みたい」
「かしこまりました!」
彼女は慣れた手つきで用紙とペンを差し出してきた。
「こちらにお名前と職業、それから戦闘経験などをご記入ください。武器の所持状況も、できれば詳しく」
用紙を眺めていると、受付嬢は俺の手元を見て申し訳なさそうに言う。
「すいません、変なキャンペーンやってて..」
確かに変なキャンペーンだ。"大体"300年ってどういうことだ。
「なんか街おこし?とかで、ほら、この街って年々人口が減っているので、街議会がとりあえず何かしようって...」
ほら、と言われてもな、などと思いつつ適当に返す。
「街おこしねぇ」
意味はあるんだろうか、むしろ逆効果な気もする。
ぶっきらぼうに答えながら
俺はさらさらと書き込む。懐かしい感じだ。
名前:レイン。職業:剣士。
「レインさん……はい、剣士ですね!」
「ふふ、大魔法使いレイン・アルディスと同じ名前なんて、縁起がいいですね」
「そうだな、あの横断幕がなければな」
皮肉混じりに答えると受付嬢は苦笑した。
「はは...では登録しておきます。えっと……パーティは?」
「ああ、いや、ソロでやるつもりだ」
「ソロ、ですか?……まあ、最近はそういう方も増えてますね」
少し驚いたような顔をしたが、強く引き止めてくることはなかった。俺の見た目がそこそこ場慣れしてるように見えたのか、あるいは単に慣れているのか。
「では、念のため基本の流れを説明しますね」
「Fランクの方には、調査や回収系の比較的安全な依頼が多く割り振られます。戦闘の必要がある場合は、できるだけ危険度の低い区域を指定しています」
「ふむ……助かる」
「報告は、クエストの完了後に窓口へ直接。口頭でも結構ですが、簡単な内容なら記入用紙を使っていただくとスムーズです」
「なるほど」
「失礼ですが、登録は初めて……ですよね?」
「ああ、そうだ」
「では、報酬の受け取りやランクアップの流れも、また後ほどご案内しますね」
俺が軽くうなずくと、彼女は手元のファイルを取り出して数枚の依頼票を確認し始めた。
「では……Fランクの中から、現在募集中の依頼をいくつかご案内します」
「よろしく」
「まずはこちら、荷車の護衛依頼です。道は舗装されていますが、荷主の方が少し神経質で……初心者の方だと気を遣うかもしれません」
「次にこちら、薬草の採集です。《霧の丘》というやや湿地のある場所ですが、採集ポイントの地図もございます」
「最後に、こちらが《迷いの森》での調査依頼ですね。先日から数件、魔物の目撃情報がありまして、現地の確認と簡単な記録をお願いしたいとのことです」
迷いの森、か。
聞いたことがある。――たしか、昔も何度かトラブルのあった区域だったはずだ。名前通り、入り込むと方向感覚を失いやすい、厄介な地形だった記憶がある。
「じゃあ、それで」
「《迷いの森》ですね。はい、承知しました!」
「こちらの依頼、報告期限は五日後となっております。なるべく早めに動いていただけると助かりますが、出発日は自由です」
「五日か……了解」
「何かあれば、途中で引き返していただいても大丈夫です。その場合も、状況だけでもご報告いただければ、履歴は残せますので」
しっかりしてるな、と思う。昔よりも、ずいぶんと事務処理が整ってきている。ギルドも時代とともに進化したということか。
「では、こちらが依頼票と簡易地図になります。お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
「ありがとう」
俺の駆け出しとしての初クエストだ。
奇天烈なキャンペーンは置いておいて、久方ぶりのスタートとしては及第点といえよう。
こうして俺は、数百年ぶりに、“駆け出し”としての一歩を踏み出した。