負けられない理由
邪竜は大きなくしゃみをすると、リンリに向かって炎を吐いた。避ける余地がないほどの広範囲攻撃。リンリは包丁を縦に振り下ろし、炎の波を割る。開けた道を走り、足に魔力をためて空へ飛ぶ。邪竜の目の前。
「半月切り」
万物を真っ二つにする斬撃を邪竜は鋭い爪で受け止め、リンリを火口へと叩きつける。
「冷却魔法」
下に放ち、マグマを冷却して作った足場に着地するリンリ。顔についた煤をコックコートでぬぐい、奥歯を噛む。やはり、一筋縄ではいかない。
リンリは包丁に伝わせる魔力を倍にし、射程を伸ばし、切れ味を上げる。呼吸を整える間もなく邪竜の追撃。上空から押しつぶすような火炎放射。リンリは背中のフライパンを抜き、ガードする。足場が崩れる。マグマに片足を焼かれた瞬間、もう片方の足で空を蹴り、火口から脱出。
まともに戦っては勝てない。しかし、リンリには負けられない理由があった。
炎に焼かれながらも距離を詰め、邪竜の横っ面にフライパンで重い一撃を入れる。
ベルゼに決断させたのは、自分だ。
邪竜がお返しと言わんばかりに鋭い爪でリンリを切り裂く。
賢者の石焼きビビンバを食べなければ、ベルゼはあのような結論には至れなかったはずだ。
邪竜の火炎の咆哮とリンリの焼成魔法が激突する。
だからリンリは、負けられない。邪竜をしとめ、ベルゼに明日の昼食を召し上がっていただかなくてはならない。一人城に残り、殺される、などという選択をさせてしまったから。
顔も手も火傷だらけだった。だが、漆黒のコックコートは、破けていないし、燃えてもいない。エルフの森に生息する蚕の糸で織ってあるこのコックコートには、天使の加護以上に特別な加護が宿っている。脳裏に、今は亡き王妃様の顔が浮かんだ。
降り注ぐ火炎をよけながら、リンリは思考を巡らせる。認識を改める必要がある。どれだけ図体がでかかろうと、どれだけ濃い魔力を放っていようと、しょせんは食材だ。これは殺し合いではない。ただの食材の調達だ。食材は、料理人によってさばかれる。どんなに食材が暴れようと、料理人の優位は変わらない。
すべての魔力を解放し、料理人としての矜持を芯に立ち、宣言する。
「魔王城筆頭料理人リンリ・ルルコース。これより、調理を開始します」
邪竜が一瞬、すくむのがわかった。その隙をリンリは見逃さない。
「微塵切り」
邪竜の長い尾が先っぽから細かく切られた。その速度は、人間の域を超えていた。邪竜は痛みに吼え、首をねじらせ、火を吐く。フライパンで防御し、次の攻撃に移る。
「角切り」
邪竜の左足が無数のサイコロ状に切れ、体勢が崩れたところに畳みかける。
「乱切り」
リンリは自身の体を回転させ、その遠心力を利用して、邪竜の大きな体をざっくばらんに切っていく。炎のかぎ爪を包丁ではじき返し、その巨体から発せられる絶叫さえも切り刻む。ありったけの炎と黒煙を闇雲に吐き散らす邪竜。
リンリは顔に新たな火傷を負い、肺に刺すような痛みを抱えながら、包丁をふるった。首を胴体から切断する一撃。
空を舞い、リンリのもとに落ちてくる竜の頭部。
「飾り切り」
邪竜の額に包丁でバツ印を入れ、リンリは長く息を吐いた。周囲を見回すと、赤黒い肉片が火口のあちこちに散在している。回収し、早く城に戻らなければ。
コックコートのポケットから、大風呂敷を取り出し、縮小魔法を解除して広げる。火炎蚕の糸で織られているこの風呂敷は耐火性をもち、決して燃えない。ダメージを追った足をひきずりながら、邪竜の肉を風呂敷の上へと放っていく。
空が白んできた。もうすぐ朝日が昇る。麓から城までロスの足でも四、五時間はかかる計算だ。このままでは、間に合わない。
そのときだった。風を裂くような遠吠えとともに、ロスが山頂へと駆けのぼってくるのが見えた。軽快な足取りでリンリのもとに到着したロスは、長い舌でリンリの全身をひとなめした。
「ロス、麓で待ってなさいと言ったじゃないですか」
ロスはそしらぬ顔で、辺りに散らばっている肉の一塊をくわえ、風呂敷の上に置いた。火口の険しいところまで乗り出し、首を伸ばし、回収できる肉はすべて回収していくロス。その動きには無駄がなく、手負いのリンリの倍以上の働きっぷり。
それでも、今から山を下りて、城に戻り、料理する時間も考慮すると、猶予はない。
大陸の果てから朝日が昇り始めた。