第七話 対面
私は激しく後悔していた。夕刻、帰ってきてみれば、そこにはあってはならない光景が広がっていた。ログハウスの中では、ジーンが夕食の用意をしているはずだった。料理に慣れていない彼が、雑に野菜を切っている、きっとそんな光景であるべきだった。
そして、私は彼を抱き締めるのだ。ただいま、と。彼は照れながら言ってくれるはずだった、おかえり、と。
「ジーン」
ぐったりと眠りについている彼から、生気を感じない。上半身は裸、腹部には厚く包帯が巻かれていた。
ぼうっと、彼の寝顔を見つめる。肩にかけていたカバンは床に落ちる。それを蹴飛ばして、彼のもとへ歩み寄る。
現実を飲み込めない。
こんなことに耐えられるわけがない。さんざん待った。ずっと耐えてきた。ようやく目覚めた彼と手に入れた、普通の生活。
それは、こんなにもあっさりと崩れてしまうものだというのか。
彼の頬に手を添える。
力のない弱々しい呼吸だが、確かに生きている。
「あなた誰」
ジーンの傍で突っ立っている子どもに問いかける。私が帰ってきてから、一歩たりとも動かずに静止しているエルフの少女。
その手には、お湯とタオルの入った桶があった。
「っ……ソ、ソラリス」
「へえ。なんで私とジーンの家にいるの」
「お、お兄さんは、助けてくれた。怪我して、私が今度は、助けなきゃって看病を」
「ああ、これあなたのせいなのね」
エルフの首を右手で掴み、開けっ放しだった玄関ドアに向けて放り投げる。
外へ飛び出し、雪原を水切りの石のように転がっていったエルフは、激しく咳き込んでもぞもぞ這い回っていた。
「『アレ−−−」
「っ、お兄さんを閉じ込めないで!!」
「……なんですって」
手足をバラバラにしようとした矢先、奇怪な言葉が飛んできた。
雪を踏み締め、ジーンを寝たきりにさせた害悪と距離を縮める。
「この結界魔法、あなたのなんでしょ」
「ええ、そうね」
「お兄さん以外を寄せ付けない、お兄さん以外は全員虐殺するための結界」
「そうなのよ。だからおかしいの。ジーンの傍に、汚い虫がもぞもぞと動いていてね。危ないわ」
「……」
「ああ、そういえばどうやって入り込んだのかしら。何の魔法を使ったの。今後の参考にするわ」
「……お兄さんのこと、なんだと思ってるの。この結界魔法は、お兄さんを孤独に閉じ込めるための牢獄」
「やっぱりいいわ。もう死んで」
魔法を発動させる、その時だった。私とエルフを阻むように、見覚えのある炎が走り抜ける。
あからさまに私の注意を引きたかったのだろう一撃の跡を追えば、そこには忌々しい勇者の姿があった。
「今度は殺すわよ」
「いいだろう。けれどね、ヘレナ。その子に手を出すことは間違っているよ。その子がいなければ、ジーンは死んでいた」
「違うわ」
「なに?」
どいつもこいつも。
何度、繰り返せばいい。何度、ジーンを苦しめればいい。
「私以外の存在がジーンと関わるから、ジーンは不幸になるの。だから、あなたとエルフが悪いわ。死んでいいわよ」
レインは剣を構え、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「君は−−−」
「殺していい!!」
レインの言葉をエルフの大声がかき消した。そんな小さな身体からよく出たものだと、褒めてやれるくらいに大きな声。
見れば、銀髪銀眼のエルフが震えて立っていた。ああ、そうだろう。分かっているはずだ。私にレインは勝てないと。きっと自分は殺されてしまうことを、理解しているはずだ。同じ魔法使いとして、嫌でも肌身に感じ取っているはずだ。
私との間にある、絶対的な力の壁。
エルフの少女も、炎の勇者でも、大して変わりはない。
この場の生殺与奪の権利は、私にある。
だが、震えながら、エルフは私に向かって歩いてくる。
「殺していい。死んでやる」
「……」
「でも、お願い。目を覚ましたお兄さんに、謝らせて。それまでは殺さないで」
「あなた」
「好きにいたぶっていいから。今は死ねない。謝りたい。ありがとうって言いたいの。だから、お願い。土下座もするよ。靴も舐めるよ。絶対殺してもらうから、今だけは許して欲しい」
すっと、私を見もせず素通りする。
エルフはログハウスの中に戻っていくと、お湯とタオルを淡々と用意してジーンの傍に膝をつく。
ジーンは、彼女を何かから助けた。そして、彼女はジーンに謝りたい。そして、ありがとうと、伝えたい。
全く、懲りない人だ。
「レイン」
「な、なんだいヘレナ」
怯える勇者にため息を吐く。
端的に要求した。
「説明なさい。簡潔に」
「−−−エデニスト商会、ね」
事の顛末をエルフの少女が語った。食卓を囲んだ私たち三人の間に、しばらく静寂が流れていく。
風で、窓がカタカタ音を立てる。
レインは私を警戒しているようだ。いつでも抵抗できるように、剣を一本しかない右腕側、机に立てかけている。
ゆっくりと、机の下で右手は剣に動かされていた。
二人のことなど全く興味はない。私は部屋の片隅、ベッドの上で眠っているジーンを眺める。
(繰り返す。あなたは、やっぱりあの頃のジーンのまま)
魔族二人を相手に、魔力もなく魔法も使えないのに戦う。相変わらず、優しくて、危なかっしい男の子。
記憶を失っても、彼は彼のままだった。
「でも、お兄さんを刺したのは、誰か分からない」
静けさを破ったのは、エルフの少女だった。ジロリと横目で一瞥する。
私に殺されるとでも思ったのか、エルフの呼吸が止まった。
レインが割り込むように口を開く。
「僕も見た。何者かは、分からなかった。魔力の感じから、魔族じゃないと思う。人間とも言い難い。初めて感じたよ。ヘレナ、君とはまた違う、なにか異質な魔力だった。そして、あれは多分エデニスト商会の人間じゃない」
「なぜ、そう思うのかしら」
「奴は僕の一撃を避けた。本気の、殺すつもりの一撃だよ」
「……」
「君や魔王軍幹部だった魔族たち以外に、本気の一振りをかわされたことはない。エデニスト商会に味方する闇ギルドの魔法使いは多い。でも、僕の本気を簡単に避けられる奴はきっといない」
「なるほどね。そして、魔族でも人でもなかったと」
「ああ」
頷くレインが、ようやく私への緊張を解いていく。彼の右手が、大人しく机の上に置かれた。
「そもそも、魔王軍幹部だった彼らは既にこの世にはいないわ。あなたを相手にできる魔族はきっといない。かといって、人間の魔法使いであなた以上の存在も考えにくい」
「他の勇者ならありえる。だが、それなら僕には分かる」
「……」
「ヘレナ、聞かせてくれ。君はどこに行っていたんだ。君が、ジーンをこの結界から外に出すとは考えられない」
「王都よ。この間の件を調べに。馬車がないから、時間がかかったのよ」
「なるほど。その間に、ジーンが一人街に出たのか」
「……迂闊だったわ」
聞いて欲しかったわけではない。はっきりと言えるが、この二人は私にとって本当にどうでもいい存在だ。
これは、自分へ向けた言葉。
「食料はあった。出るなとも言ったのに。街までだって、結構な距離がある」
「まあ、だろうね」
レインは窓の外に映る雪景色に目をやる。
「半径五キロ、直径十キロの大魔法結界。侵入した動物の魔力に反応、一瞬で細胞一つ逃さないほどの絶対的凍結による即死の結界魔法−−−『ディアブロ・アレフ』」
「……」
「こんなものの中にいれば、ジーンは安全だと誰でも気は緩む。君のせいじゃない」
「その絶対領域に、どうやってこの子は入ってきたのかしら。あなた一人なら分かるけれど」
「僕の結界魔法を展開しながら、君の結界を抜けた。彼女は、僕の結界内に保護した」
「結界と結界の押し合い……。なるほどね」
結界魔法は、特定のエリア全体を支配する。結界を打ち破るには、単純にその結界の効果を正面から打ち破る。あるいは、結界に対して結界をぶつけて、相手の結界内に自分の結界を展開して部分的に打ち破ることができる。
レインは自嘲気味に笑った。
「半径五キロの君の結界に対して、半径三メートルに縮めた僕の結界でね」
「ジーンはここまで一人で帰っては来れなかったでしょう。結果的に、あなたが私の結界を抜けて連れて来てくれて助かった。礼を言うわ」
「……え」
ぽかんとした顔で私を見る勇者に、眉を潜める。
「なによ」
「あ、いや。お礼なんて、貰えるとは思っていなくて」
「ジーンを助けてくれたんだから、お礼くらい誰にでも言うわ。それがあなたじゃなくて汚い小魚でもね」
「そう、かい」
まだ呆然としているレインを放っておいて、私は個人的に一番気になっていることを確認する。
エルフの少女を見て、尋ねる。
「ねえ、ジーンは魔族二人を倒したの。殺したの」
「……殺した」
眉根に力が入ってしまう。
拳をぐっと握り締める。痛いくらいに。全て、私のせいだと思ったから。
「ジーン、その後、様子は変じゃなかった」
「動揺、してた。初めて、殺したのかもしれない。……私のせい」
「そう。もういいわ」
ジーンはきっと、過去の忌々しいところを思い出している。だが、それだけを思い出しているなら、彼はきっと悩み絶望しているに違いない。
何ができるだろうか。
私に、一体。
「ヘレナ。君の方は王都でなにか分かったのかい」
レインが私に問いかける。
ああ、なるほど。彼は勘違いをしているようだ。
教えてあげよう。
「レイン」
「っ」
私は自分の魔力を少し撒き散らす。
彼は呼吸も、まばたきも、指先一つ動かせなくなる。死を感じたのだろう。凍らせていないのに、彼は固まっていた。
「ジーンに何があったか、それを私は知りたかった。そして、そこのエルフがジーンに謝罪と感謝を伝えたいと言うから、今私はあなたとエルフをこの家にもてなしてあげているの」
「……っ」
「くわえて、ジーンの助けた命だから。エルフを殺さないのは、そういう理由。でもレイン」
トン、と人差し指を机に叩きつける。レインの止まっていた呼吸が再開する。
「ジーンを連れて帰ってきてくれてありがとう。でも、もうあなた、いらないわよね。私が今、あなたを殺さないのは、ただの気まぐれ。なりゆき。なんとなくよ」
「……あ、ああ」
「ええ、なんとなく。雰囲気。そして、なんとなくだから、変わってしまうこともある。残念だけれど」
「そう、だね。ああ、分かっている」
「ええ。良かった」
レインは口を閉ざした。エルフの少女を見る。私に怯えているが、それでもジーンの容態をチラチラと見ては気にしている。
このエルフ、歳はいくつだろう。人間年齢で言えば、十三、十四くらいの子どもに見える。背も小さい。そういえば、この村に子どもがいたのは、もう一年以上前になるのか。
双子のネラとヘラは、この子と歳が近かった。子どもは少なかったから、あの子たちが生きていたら、このエルフを歓迎していただろう。
「……いい遊び相手になったかしらね」
私の小さな呟きが、誰にも聞かれず消えていく。
ジーンが目覚めるまで、ただ沈黙だけが元気に駆け回っていた。