第五話 怪物とエルフ
上着をエルフの少女に渡し、俺は宛もなくただ歩き続けていた。
ようやく、いろいろ思い出せた。魔法には詠唱が必要なこと。魔法使いを殺すには喉を潰して暗殺に徹すること。下手に急所を狙わないで柔らかいお腹をめった刺しにすること。
「……クソ野郎じゃねえか、俺」
ヘレナは言っていた。ゆっくりと思い出さなくてはいけないと。そうしないと、俺は悲しみに押し潰されてしまうのだと。
思い出すのは、ヘレナとお参りした墓の数々。
(俺が、殺したんじゃないのか)
震える。
寒くない。なのに、震える。怖い。なんだこれ。震えがひどくなる。身体の芯から砕けてしまいそうなほど震える。
怖い。怖い、震えが怖い。止まらない。怖い。
(俺が、ヘレナの家族を、殺したのか)
息が、だめだ。息を吸えない。吐けない。視界がぼやけていく。眼球が奥から押し出される。目が飛び出そうだ。額の中心が燃えているように熱い。
何より、怖い。
怖くて怖くて、たまらない。
俺は、俺はただ。
俺はただ、普通に、生きて。
「大丈夫……?」
「っ」
振り返ると、そこには俺の上着を着た少女が立っていた。見た目十四歳程度にしか見えない、本当に小さな少女。俺が怖がらせてしまった、少女。
「……大丈夫。君こそ大丈夫か」
「なんで」
「え?」
「なんであなたが、泣いているの」
「……」
そうか。
ああ、俺、今、泣いているんだ。
自分じゃもう、分からないよ。
「殺しちゃったからかな」
「……」
「自分が怖いんだ。俺、記憶なくてさ。君を助けなきゃって動いたら、普通に殺してた」
「……」
「意味、分かんないんだ。だから、多分、泣いてる」
「意味……?」
「うん。意味」
少女は小首を傾げて言った。
「私の命が、助かったよ」
ふっと肩から力が抜ける。つられて少し笑ってしまった。俺は、今、助けた少女からありがとうを貰った。
貰ったことに、救われた。
殺したのではなく、助けたのだと。そうやって自分に言い聞かせた。
「お兄さん、なんでまた泣くの」
「……なんでかなあ」
「痛いの? 大丈夫?」
「……うん。本当に、ありがとう。ちょっと大丈夫になったよ」
少女から貰った五文字に、心は震えた。良かったと、本当に助けられて良かったと、ただ純粋な気持ちがあった。
だから俺は、少しだけ俺に期待した。
恐ろしい自分に、本当に少しだけ夢を見れた。
何度でも言おう。彼女に。
「俺の方こそ、助けてくれてありがとう」
「……? 助けてくれたのは、お兄さんだよ」
少女の上着のボタンが閉まっていない。俺は膝をつき、ボタンをかけて、きちんと前を隠してあげた。
涙は、止まってくれた。
この子のおかげで。
街まで戻ってきた俺と少女は、既に夜が更けて誰もいない街中を歩いていた。
彼女はエルフ。特徴的な長い耳は、常に少し垂れ下がっている。銀髪が膝まで無造作に伸びており、顔の右半分が前髪で全く見えな
い。左目に埋まる銀色の瞳は綺麗だが、鈍い光を放つ鉄のような印象を受ける。
名前はソラリス・ランヴァード。歳は十四歳。ここエレストヤ国から遥か北に、彼女たちエルフの国『サーヴァン国』があるらしい。
「帰れるのか、エルフの国に」
「帰っても、お家ない」
横目に彼女の顔を見る。
相変わらず無機質な目をしていた。
「なんで」
「貧しかった。私、人身売買している人たちに売られたの」
「……」
「二ヶ月前に。そうしたら、ここに来た」
「そう、なのか」
こくりと頷いた彼女は、生気のない瞳で俺を見上げた。
「お兄さんは、どこ行くの」
「……どこ行くかな」
「お家ないの」
「あるけど、どうだろ。帰っていい場所なのか、分からなくなった。俺が帰っていいところなんて、ないかもしれない」
「そう」
地面を見て歩くソラリス。俺は彼女の頭に手を乗せた。できるだけ優しく撫でてやると、彼女の歩みが止まる。
不思議そうに、俺を見上げてきた。
この子を助けた責任がある。だから、微笑みを作る。
「ソラリスと一緒だよ。俺も」
「一緒」
「そう、一緒」
きっと普通に過ごしていれば、どこにでもいる少女だったなら、この髪は綺麗に手入れされボサつかなかっただろう。適切な長さで揃えられたのだろう。裸に男物の上着一枚、裸足で街を歩く必要もなかったのだろう。
上着の中に隠れている手、そしてむき出しの足には、枷が取り付けられている。
「邪魔だな、それ。取ってやりたいんだが」
「売られたときから、ずっとこれつけられてる」
「ずっと?」
「うん。これ、魔力制御してくる。魔法が使えないの。私がエルフだから、怖いんだと思う」
「え、君も魔法使えるのか」
「エルフはみんな使える。普通」
「魔族、みたいなものなのかな」
魔法使いばかりの種族は、魔族だけかと思っていた。そんな俺の偏った知識に、ソラリスは淡々と答えてくれる。
「エルフは数が圧倒的に少ない。元は魔族だったとも言われてる。魔族の中から派生した種族だと思う。違うのは耳と、医療魔法のセンスが高いことかな」
「医療魔法?」
「病気、怪我とかを治す魔法。医療全般を補える魔法。支援系の魔法が使えるのは、エルフがほとんど。魔族は確かに魔法の天才しかいないけど、攻撃魔法に限定されるかな」
「なるほどな。得手不得手あるわけだ」
なんとか、彼女の枷を取り除いてあげたい。俺がない頭を振り絞っていると、ソラリスがじっと虚空を凝視していた。
視線の先には、何もない。俺とヘレナの家に続く、公には立ち入り禁止とされた森の自然があるだけだ。
街の外れまで、戻ってきてしまったようだ。
「どうした、ソラリス」
「お兄さん。魔法使いじゃないから分からないんだ」
「なにが」
無機質だった銀の瞳に、彩りがついていく。それは目の前で獰猛な動物に出くわし、その一挙手一投足を伺うような警戒の色だった。
「あの森、なに。この枷のせいで、ここまで全く感じ取れなかった」
「森がなんだっていうんだ。立ち入り禁止の森だよ。この国の魔法実験の地になっているらしいけど」
「これ、なに。おかしい。量が異常」
「−−−って待ってソラリス!!」
ソラリスは一人森の中に突き進んでいった。葉っぱや枝など気にすることなく、ずんずん前へ足を運ぶ。少し遅れてやって来た俺が見たのは、途中から雪原と化している不思議な自然の光景だった。
ここまで、結局戻ってきた。
まだ月は明るい。ソラリスのことも、ここでさよならとはいかない。
俺が帰っていい場所かは分からないが、ヘレナのいない残り二日は、ソラリスを家で世話するべきだろう。
帰りたくないという俺の気持ちに、ソラリスを振り回すことは、これ以上できない。帰って保護できる家があるなら、帰るべきだ。
「ソラリス。実はな、この雪地の先に俺の家がある」
「え」
振り返ったソラリスは、目を見開いて驚愕していた。
感情の表出が少ない印象だった為、そのリアクションに俺は固まってしまった。
ソラリスが、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「この先に、お兄さん住んでるの」
「ああ、うん。立ち入り禁止なんだけどな。ほら、記憶がないって言ったろ。別に安全なんだけどな。魔法実験ってなんなんだ本当に」
「……お兄さん。これ、魔法だよ」
「なにが?」
ソラリスは木に登っていた虫を一つ捕まえた。小さな、四本脚の虫。ソラリスはそれを雪原に向けて放り投げる。
そして、見てしまった。
雪原地帯に入った瞬間、虫は落下さえも停止して完全に動かなくなった。
空中で、放物線を描いた姿勢のまま、そこで時間が止まった。
思い出す。ソラリスの後ろに、少し離れたところにいた、熊と鳥。草木をかき分けて進むと、やはり昼間の時と同じ姿勢同じ位置で熊も鳥も時間が止まっている。
「時間が、止まっているのか」
「厳密には、違う」
ソラリスの声が、震えていた。動揺しているのだ。あれだけの絶望において尚、落ち着き払って無表情にいた彼女が、溢れ出る感情に蓋をできない。
溢れているようだ。
恐怖、というやつが。
「凍ってるんだよ、お兄さん。その雪原地帯から先、入ったら絶対零度どころじゃない、きっと光とか空気の流れとかすら全て凍らせるほどの世界なの」
「……え、いやだって、俺、今日ここから来たよ」
「木は、あるんだ。じゃあ、凍らせるのは、魔力を持った動物に限定されてるんだ。ここから先、入るにはこの異次元の魔法……多分『結界魔法』っていわれるこれを、どうにかしないといけない」
「結界、魔法?」
俺の疑問に、ソラリスは雪原地帯を呆然と眺めながら答えてくれた。
「使える人は少ない。エルフだって使える人、いないかも。自分の魔法効果を結界内に存在するものに常時全自動で発動させる。神業、って言っていいよ」
「……神業ね」
「きっとこの結界は、動物の魔力に反応してる。入った動物を一瞬で凍らせて殺すの。光も空気さえもまとめて、その魔力を感じた場所を全て凍らせる」
「……」
「お兄さんがやったの、これ」
「いや、知らないよ」
首を横に振る。
俺は雪原地帯に片足を突っ込んでみた。問題ない。何も起きない。
「お兄さんからは魔力を感じない。微塵も。だから反応しない。お兄さんだけは安全にここを通れるんだと思う」
「……」
「……お兄さん、これ心当たりあるの」
「ああ、うん」
俺の身体に刻まれた、血生臭く危険な記憶。俺に魔力が一切ない、ということの特殊性。ヘレナと墓前で涙した、確かに俺と関わりのあっただろう雪原の村の家族たち。この国の勇者で俺とヘレナを知る友人レイン・フォレスターとヘレナの言う『約束』。俺にかかった懸賞金。
無視できない、放っておけない問題だらけだ。
そして、はっきりと言おう。
一番明らかにしなければならないのは−−−最も脅威的な力を持った、正体不明の謎の少女ヘレナ。
(ここは絶対安全ね)
踏み締めた雪に視線を落とす。
(そりゃそうだ。俺以外、俺とヘレナ以外は一瞬で死んじまうんだからな。そりゃ安全だ。道理で家の周りでも動物を見ないわけだ)
気になったのは、セーナ湖の魚等の存在。あれらは確かに生きて泳いでいた。すると、外敵の侵入を防ぐために、外周にはこの凍結爆弾が仕掛けられている。そして、自宅周辺には結界魔法の凍結効果がないということになる。ドーナツ型に、凍結魔法が発動するということだろう。
(この雪全部、ヘレナの力なんだ。神様みたいな力、持ってんだな)
「お兄さん」
考えにふけっていた俺を、ソラリスの声が現実に引き戻してくれる。振り返ると、土を踏み締めて無表情にこちらを見つめる少女の姿。
「さよなら。ありがとう、助けてくれて」
「宛はあるのか」
「ううん。とりあえず、これ外す。外せさえすれば、魔法も使えるし、多分大丈夫」
「そっか。魔法使えるなら強いもんな」
「うん。だから−−−」
「とりあえず、どこ泊まろうかな。金足りるかなこれ」
「……え」
土を踏み締める。
ソラリスの肩を叩いて、俺は街に向かって歩き出した。
肩から紐でかけていた鞄から果実を二つ取り出し、一個をソラリスにゆっくり投げる。
受け取った彼女は、何か言おうと口を開いた。
俺はそれを遮った。
「それ今日買ったばっかだから、激うまだぜ」
「……」
今の俺にできることを優先しよう。今の俺が始めたことは、この子を助けたこと。ならば、この子の枷を壊し、自由にさせるまでは今の俺にしかできない義務だ。
隣に並んだソラリスは、チラチラと俺の顔を盗み見ている。
可愛くて、笑ってしまった。
「ほら食ってみ。激うまだから」
「……ん」
小さな口で、俺のいた世界ではりんごに近い果実にかじりついた。ソラリスは俯いたまま咀嚼する。
きゅっと、手を握られた。
弱々しい。今にも消えてなくなりそうな力で、俺の左手を彼女の右手が掴んで離さない。
ぽつりと、ソラリスは素直な気持ちを聞かせてくれる。
「……げき、うま」
「ああ、激うまだ」
記憶を失くした怪物と、捨てられたエルフ。深夜、居場所を失った俺たちは夜の街を歩く。