第三話 墓参り
目覚める。
いつもとは異なる感触に気がつく。左腕がやけに締め付けられている。まだ覚醒途中、やる気のない瞼を無理やりこじ開けて見てみると、そこには個人的に世界一綺麗な白い少女が纏わりついていた。
「っごぁ」
首を折られた鳥のような声が出る。右手の壁際に飛び退き、思い切り後頭部を強打した。
痛みに悶絶していると、目をこすりながらヘレナが起き上がる。
「ジーン。おはよう」
「おは、よう」
「あら、どうかした」
「いや、何でもない。……いや違う、何でもある!! なんで一緒に寝てるの俺ら!!」
痛みを誤魔化すためにも声を張る。対して、ヘレナはさも当然のように言ってのける。
「私が夜中潜り込んだからね」
「なぜそんなことを!!」
「ぎゅってしたかったから。寝苦しかったかしら、ごめんなさい」
「いや、そうじゃなくて」
「朝ご飯作るわ。ジーンはコーヒーをお願いね」
「……うん」
勝てない。無駄だ。事の本質を全く捉えていないぞ、この少女。
記憶を失う前は、ずっとこんな感じだったのか。恥ずかしくて聞き出せない。
洗顔を済ませ、コーヒー用にお湯を沸かす。薪ストーブの上で金属のやかんを温める。沸騰するまで、ぼうっと昨日の出来事を思い返していた。
レイン・フォレスター。記憶を失う前の、俺の友人。この世界で俺のことを知っている、ヘレナ以外の唯一の人間。
正直、もう一度会いたい。
会っていろいろと教えて欲しい。俺がどうしてこの世界にやってきたのか、俺は何をして生きてきたのか、俺とヘレナの関係は一体何なのか。
「……」
「ジーン」
「あ」
呼ばれて気づく。やかんから蒸気が昇っている。タオルを用いて取っ手を掴み、用意していたマグカップ二つにお湯を注ぐ。
食卓に座り、出来上がったコーヒーを先に頂く。
すると、キッチンで料理を進めているヘレナが声をかけてきた。
「ジーン。今日は午前中に少しお出かけしましょう」
「お出かけって……。街へ行けるのか」
「ごめんなさい、街じゃないわ。少し歩いた、森の中」
「森……」
一体何の用だろう。
俺の疑問は理解していたようで、ヘレナは一言添えてくる。
「お墓参り」
「お墓参り……。ヘレナの家族か? それとも、俺の?」
「うーん。まあ似たようなものね。私たち二人にとって、大切だった人たちよ」
料理の乗った皿を食卓に運びながら、ヘレナは俺に笑った。その笑顔は、初めて見る。
「ジーンにはね、絶対会ってあげて欲しいの。みんな、きっと喜ぶから」
その笑い方は、何かを我慢している笑顔。何かが溢れてしまわないように、目元が緩まないように、必死に感情を押し殺すための笑顔だった。
雪原地帯を進むと、少しずつ木々が立ち並んでくる。ヘレナと二人、特に話すこともないまま、黙々と歩き続けていた。
明らかに、いつもの彼女ではない。冗談も言わない。明るく振る舞おうともしない。俺を過度に気遣うこともない。事実、俺が少し息を切らすほど早足で彼女は先を進んでいく。
(余裕が、ないのか。心の)
一体、何が彼女をそうさせているのか。あと少し、歩き続ければ答えに辿り着ける。
空気は相変わらず穏やかだ。
今日も、晴れている。ここはいつでも晴れている。汚れを知らない雪と、包み込むような光、青く広がる空、それだけが常に完成されている。
雨すら降ったことがない、まるで楽園。
そんな素敵な場所に、死の名残が散らばっていた。
森の中、氷の墓石が三十近く並んでいる。
「みんな、お待たせ」
ヘレナは墓石の一つに近寄り、腰をおろす。子どもでも撫でるように触れると、ようやく振り返って俺を見つめる。
「ジーンよ。連れてきたわ」
「……」
彼女の瞳が、訴えかけていた。願っていた。俺は彼女と同じように墓石に近寄り、彼女と同じように墓石を撫でる。
墓石には文字が記されていた。
「ヘレナ。これは、誰の墓なんだ」
「私たちと一緒にこの地で暮らしていた、家族みたいな人たちよ。この墓はレーナ。私の、親友だったわ」
「レーナ……」
「そう。レーナ」
ヘレナの唇が、少しだけ震えた。
「綺麗な金髪だった。瞳もね、エメラルドみたいだったの。やんちゃだったわ。よくあなたをからかって遊んでいた。私はいつもそれを注意するんだけど、あなたは甘いから、笑って彼女のおもちゃになっていた」
「レー、ナ……」
なんだ。思い出せない。何一つ、思い出せやしない。欠片も思い出なんて掴めていない。顔も分からない。声も知らない。
それなのに、なんだこれは。
「……レーナ。レーナ」
言葉にせずにはいられない。ポタポタと、晴れているのに俺の下には小雨が降っている。雪が、少し溶ける。
なんだ、なんなんだ、ここは。
どうしてここは、俺の胸をこんなにも締め付けるんだ。痛くて、苦しくて、たまらない。
ヘレナの顔が見えない。
顔を、俺は、上げられない。
声だけが、聞こえてくる。
「あっちは、セナ。あなたを慕っていたわ。真っ直ぐで、思いやりのある、この村一番の優しい子だった」
「……」
「その隣はね、フィオラ。セナのことが好きだったのよ、彼女。セナがあなたの後ろばかりついて回るから、あなたに嫉妬していたわ」
「……」
「あっちはネリアおばさん。この村全員のお母さんみたいな人。いつも全員のご飯を用意してくれたの。大酒飲みなのに、全然酔わない。私もたまに甘えてしまった」
「……」
「ガイルさんは、あっち。魚を獲るのが上手でね。あなた、ガイルさんから魚獲りを教わっていたのよ。あと、すごい強いの。無口だったけど、やっぱり優しい人だった」
「……ヘレナ」
「奥にはね、ネラとヘラがいる。一番小さな双子の女の子。村全員で育てていてね、みんなの子どもみたいな感じだった。喧嘩をよくするんだけど、大体ネラが勝って、ヘラが泣いて、もうさんざんだったわよ」
「ヘレナ」
「それとね、あっちは−−−」
「ヘレナ。やめてくれ」
たった一つ、確かなことがあった。記憶など以前蘇らない俺に、間違いない感覚だけがあった。
全員、初めて聞いたような名前ではないのだ。どこかで聞いたことがある、いつか言葉にしたことがある、そんな名前ばかりだった。
涙が止まらない。息が、乱れる。胸元を痛いくらいに握り締める。
「ごめん、何も思い出せないんだ」
「……うん」
ヘレナの声は優しい。
その優しさに、つい甘えてしまった。
「思い出せない。思い出せないんだ。でも、思い出さなきゃいけない。それだけは、分かるんだ。俺が、きっとこの俺が、とっても大切にしていた場所なんだ、ここは。この人たちは」
「うん」
「思い出す。自分で思い出すから、もういいよヘレナ。それ以上は、もういい」
「……うん。分かった」
ヘレナが後ろから抱きついてくる。いや、違う。俺を包み込み、頭をさすり、守ってくれる。
「ジーン。全てを伝えることは容易いわ。でもね、それじゃだめなの。ゆっくり、少しずつ、思い出していって。そうでないと、あなたはきっと悲しみに耐えられない。心が壊れると思う」
「……分からないけど、分かったよ」
「ええ。でもね、何よりも今を生きて。今を大切にして。その中で、彼らのこと、私のこと、一つ一つ拾ってあげて。私との、約束」
「ああ、約束、分かったよ。約束する」
レーナという少女の墓石に額を押し付ける。俺はそのまま、しばらく動かずに震えていた。
寒くは、なかった。
「それじゃあ、四日後には戻るわ。絶対にこの辺りから出ていかないでね」
「分かったよ、ヘレナ」
ログハウスの外に出たヘレナは、白いコートに赤いマフラーを巻き、大きな旅行用バッグを持って……実に不快そうに眉根を寄せている。
俺は苦笑すると、本心を打ち明けた。
「俺も一緒に連れて行ってくれればいいのに」
「それはだめ」
ピシャリと真顔かつ一言で跳ね返される。
しかし、すぐに悲しげな顔になる。表情が忙しいな、この子。
「でもやっぱり寂しいわ」
「だから一緒に行くって言ってるのに」
「それはだめなのよ。ねえ、ジーン。絶対に絶対に、この村から出ちゃだめよ」
「分かってるけど、村っていうか雪野原だし……。どこまでなら行っていいか分からないよ」
「そうね。セーナ湖と家の周りだけ」
「いつも通り過ごせってことね」
「そうよ。いい子ね」
ヘレナは王都へ向かうことになった。例の、俺の懸賞金のかかった手配書。その手配書が実際どれだけ広まっているか、直接確認してくるとのことだ。
もちろんついて行くつもりだったが、危ないとのことで即却下された。
「ヘレナが強いことは分かるんだけど、やっぱり心配だよ。俺も」
「あら、心配してくれるなんて」
クスクス笑ったヘレナは、冗談のような口ぶりで断言する。
「私、強いのよ。だから大丈夫」
「……うん。まあ、そうだけど。ヘレナより強い魔法使いだって、流石にいるだろう」
「んー」
頬に指を当てて空を見上げた彼女は、至って真剣な眼差しをもって再び断言する。
「いないわね」
「……まじで?」
「まじよ」
俺の反応で楽しんでいるのか。よく笑う美少女を前に、俺も釣られて笑ってしまった。
「でもほら、魔族とかは強いんだろ。この国と戦争は終わったって聞いたけど、流石に魔族は危ないんじゃないのか」
「……魔族ね」
少しの沈黙の後に、彼女は呟く。どこか遠い目をしていた。
「レインに聞いたのかしら、それ」
「あ、ああ。うん」
「そう。王都で見かけたら殺しておくわ」
「え、いやちょっと」
「冗談よ」
俺の頬に手を添えて、ヘレナは頬肉をつねってくる。
「いいから、待っていて。ここは絶対に安全だから」
「絶対って……」
「絶対なの。じゃあね、ジーン。また四日後に」
ヘレナは俺に手を振り続けながら出ていった。その姿は雪原の彼方へ消えていった。
また四日後か。一人は少し寂しいが、仕方ない。なにせ、自分の命が狙われているのだ。
ヘレナとレイン、あるいはこの国において、何か確執があったことは俺も見当がついている。深入りせずに放置していたが、この選択は果たして正解だったのだろうか。
考えても仕方のないことか。
記憶がないということは、相手にどこまで踏み込んでいいかも分からない闇の中のような恐怖がある。ヘレナに嫌われないか、傷つけてしまわないか、聞いていいことなのか、そんなことすらも分からないから、俺は彼女に何も聞けずにいた。
「……情けねえ奴」
自分に呆れた俺は、ヘレナのいなくなった雪原と青空に向かって言葉を零した。
そして、俺は直面することになる。
この四日間で−−−俺が何者で何を犯したか、その真実と罪悪に。