第二十七話 神城仁《かみしろじん》
「こんな良い天気だってのによー、お前本当にジメジメした顔してるよな。顔洗ってこい、仁」
男はタバコに火をつけて、不快そうに俺を睨みつける。窓際のいつもの椅子でタバコをくゆらせながら、一冊の本を読んでいた。
俺はしばらく黙り、一応言うべきかと判断する。
「……洗ったんだが」
「じゃあお前の性根だな。洗ってこい」
「……性根って、どうやって洗うんだ」
「知るかよ。おい、コーヒー作れ。甘くしろよ」
煙を吐きながら、俺に指示をしてくる。黙って、いつものように従った。
振り返ると、かなり傍若無人な男だった。
「ジーン、おはよ!!」
「……ああ」
少女がひょこっと顔を出す。居間につながるドアから現れた彼女は、男のもとに駆け寄って抱きついた。
「ぱぱ、おはよー!!」
「おいおい、昨日より十倍可愛いじゃねえか我が娘。明日は百倍かよ。一ヶ月後とか大丈夫か、心配になってくるぜ」
「えへへ。何言ってるのぱぱ、意味わかんないー馬鹿なのー」
「何言ってんだろうなー俺は馬鹿かもー!! あーくそ可愛いもふもふさせろ」
「くすぐったいってー」
じゃれ合う親子を横目に、俺はコーヒーを一杯作る。使い慣れたキッチンだった。やかん、コーヒー豆の缶、朝から騒がしい二人の声。
いつもの、光景だった。そのはずなのだが、妙に胸に懐かしさを感じる。
「仁、まだかよ」
「うるさい。できたよ」
せっかちな男の前にある丸テーブルに、俺はコーヒーのカップを持っていってやった。男は娘を膝に乗せ、タバコの火を消す。コーヒーを片手に読書を再開するが、膝上の少女が暴れ出した。
「ぱぱ、お出かけは」
「午後からな。ぱぱ午前中はゆっくりしたいの会会長だから、ゆっくりしなきゃいけねーのよ」
「……むう」
くるり、と少女が俺を発見する。ぱあっと顔を輝かせると、男の膝から飛び降りてダッシュしてきた。
「遊ぶぞー、ジーン!!」
「仁、なんだが」
「ジーン!!」
なぜか胸を張って間違った呼び方をしてくる少女は、大変自慢げな様子である。ゲラゲラと後ろで男が笑っていた。
「ははは、いいなそれ。おい仁、お前これからジーンにしろ。命令な」
「……分かればどっちでもいいけど」
「馬鹿野郎、そんな理由じゃねえよ。前のお前は仁だが、今のお前はジーンなんだ。これがどういうことか分かるか」
「分からない」
「人は変われるってことだよ。名前を変えられる。生き方も変えられる。夢も変えていい。変化していくんだ、それが許されているってことさ」
「分かった気はする」
「安心しろジーン。多分、分かってねえよお前」
「……大丈夫かよ、それ」
コーヒーを片手に、男は少年のような笑顔で笑ってくる。俺は、何も言えずにその明るい顔を見つめていた。
「大丈夫だ。今は分かっていなくてもな、そのうち分かる。だから大丈夫だ」
親指を立てて、サムズアップをかましてくる。その仕草に、つい口元が緩んだ。
足元にいた少女が、悲鳴を上げる。
「ぎゃー!! ジーンが、ジーンが笑った!! ちょっときもい!!」
「まじかよ見せろ!! おいレーナ、それ笑ってるのか!? こっからじゃ見えねえ!!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐ親子を無視して、俺は部屋の外へ出ていく。
そんな俺を、男が呼び止めた。
「ジーン」
「なんだよ」
「こっちのセリフだ。どこ行きやがる。朝飯食うぞ。パン焼いてハム挟め、レーナのは小さくしろ」
少女がキッチンに駆けて行き、ハムの塊や野菜を取り出す。隣の高い棚に乗っているパンの入った袋を取ろうと、背伸びに奮闘するが敗北している。
俺は黙って近寄り、パンの袋を取ってやる。ありがとジーン、と声が足元から聞こえてきた。
「……前から聞きたかったが、あんた、俺があんたを殺そうとしたこと覚えてるのか」
「バッチリ鮮明だ。トラウマになってる」
「なら、なんで一緒に飯食えるんだよ。毎日毎日、まずくないのかよ」
「まずくないね」
「……そうかよ」
「まずいのか、お前は」
腰元をトントン叩かれる。少女が小さな口を餌待ちの魚のように開けていた。
俺は真意を汲み取り、切ったハムを小さな口に放り込んでやる。満足そうに咀嚼する少女が、にひひと笑顔を向けてくる。
男の顔は見なかった。
黙って包丁でハムを切りながら、回答する。
「まずくない」
「だろーが。面倒くせえんだよお前。黙って一緒に食ってろバーカ。メンヘラやめろ」
「……ああ、そうする」
「そうしろ」
隣の少女が、三つ編みにした金髪を揺らして遊ぶ。男は眉間にシワを寄せながら本を読んでいるが、飽きたのか欠伸をしながらコーヒーを啜る。
俺は朝ご飯を食卓に並べて席につくと、向かいに親子二人も着席した。
「いただきます、だっけか」
「……ああ、俺の故郷じゃあな」
「いい文化じゃねえか。ハムだって殺して食ってんだからな。思ってやることは良いことだ」
いただきます、と少女も口ずさみパンにかじりついた。男はそれを見て小さく笑うと、食べ始める。
俺も一つ、パンを手に取った。
「ジーン、慣れろ」
「何をだ」
食べながら、男は言ってきた。
俺もパン生地を噛みちぎり、尋ねる。
「こういう生活に、だ。慣れろ」
「……」
「お前はもう、『魔族殺し』の『怪物』なんかじゃねえ。俺の舎弟だ」
「舎弟……」
「変われよ。そのきっかけは与えてやったつもりだぜ」
「……うん」
「うわ。素直に頷くなよ、きもいな」
「……」
そういえば、一度でも直接伝えたことはなかった。この男に出会えなければ、俺はきっと、変わろうと考えること自体なかっただろう。
「へレアス」
「ん?」
「ありがとう」
「……」
へレアスは馬鹿にしなかった。俺の顔を見て、満足そうに鼻で笑う。
「俺様に感謝しているっていうなら、一つ約束しろよ」
「なんだよ」
その瞳が、優しく見えた。
もう忘れかけていた。人からそんな目で見てもらえるなんて。
へレアスは、隣に座っている娘のレーナの頭を撫でた。
「守ってみろ。なんでもいい、誰でもいい、なんか守って生きろ」
「……守る」
「そう。守れ。守るために生きろ。力を振るえ。自分じゃない、自分以外の何かを守る奴になれ」
「……」
「それが、お前を助けた俺への礼になる」
「そんなんで、なるのか」
「なるさ」
食べる手が止まっていた。
これほどまでに、俺へ真剣に真っ向から話してくれる人は、いなかったから。
「お前を助けて良かったなって思えるじゃねえか。自慢になるじゃねえか。だから、きちんと何かを守れる男になれよ、ジーン」
「ソフィア!!」
ソフィアの魔力を追って到着した時には、既に地獄絵図だった。血溜まりの中で転がっているソフィア。そして、血の勇者と向かい合っているジーンの背中があった。
ソフィアのもとへ駆け寄る。息が、まだある。すぐにソラリスが傍に来て、直接身体に触れて回復魔法をかけてくれる。
ここまで来る間に、ソラリスに腕は治してもらっていた。レオナルドとの戦闘で魔力だけは少ない。正直、血の勇者相手にどこまで相対できるか分からない。
それでも、僕は剣を抜いてジーンの前に出た。
「下がれジーン。何とかする、できるならソフィアを回復魔法で治しながら連れて逃げてくれ」
いちいちジーンの反応を見ている余裕はない。僕はこちらに視線を向けている血の勇者を睨みつけた。
睨み、つけたのだ。
だが、なぜだ。
なぜ、血の勇者は楽しそうに微笑んでいる。まるで旧友とでも再会したような、敵意のない笑みを浮かべている。
違う。
僕じゃない。
「ジー、ン」
振り返り、一瞬で理解する。
ねっとりとした、光のない黒い瞳。執着のない、無機質な殺意。見ているものに価値など捉えていない、達観した青年らしからぬ顔。
ああ、間違いない。
ジーンは、きっと、もう。
「ジーン。思い、出したのかい」
「……」
答えない。
ただ血の勇者を見つめている。
「うすうす感じてはいた。記憶がなかったようだな」
血の勇者が興奮を隠すように、努めて淡々と言葉を並べる。
「ソフィアの魔法だろう。彼女が死ねば、お前も記憶をまた失うのか。彼女の死は思い出した記憶に影響はないのか」
「……」
「まあ、分からんだろうな。ソフィア本人にしか。安心しろレイン・フォレスター。出血は止めた。ソフィアは生きている」
死なれたら困る状況になったからな、と血の勇者はぼやいていた。
ソフィアの魔法で、ジーンが記憶を取り戻しただと。
どこまでの記憶を、取り戻したのだ。
ジーンを見るが、ジーンは僕を見ない。血の勇者を蛇のように睨んで動かないままだ。
「俺と、やってくれるのか」
「……」
「かつて魔王軍を戦々恐々とさせた、あの『怪物』が、俺と戦ってくれるのか」
「……」
ヴァーロックは、もう隠すことをやめていた。全力で笑い、全力で楽しんでいる。口を引き裂いて笑う顔は、とても人間の表情とは思えない。
「最高だ。イっちまいそうだぜ」
「あんたのことは覚えている」
ジーンはようやく言葉を紡ぐ。
ひどく冷たい声だった。脈のない声、死人が喋ったような生気のない声。
ヴァーロックは、物珍しいものでも観るように、ニヤニヤしながらジーンの様子を観察している。
「お前は、俺から二度も奪った奴だ」
「……二度? なんの話だ。記憶が完璧に戻っていないのか」
「思い出したよ、全部」
ジーンは言った。
全て思い出したと。あの一年前の出来事まで、全てを。記憶を失った原因も、方法も。全てとは、そういう意味なのだろう。
「思い出した。あんたは俺が」
ジーンが僕の握っている剣に手を伸ばす。僕の手の上に手を重ねてくると、強引に剣を奪い取ろうとしてくる。
「死んでも殺さないと、いけないことも」
「ジーン、待て。いくら記憶が戻ったとはいえ−−−」
凄まじい腕力で、剣が強引に奪い取られる。
止める暇もなかった。充血するほど、ヴァーロックを見て離さない。鬼のような目をしていた。
恐怖。
ただ単純に、僕はジーンが怖かった。だから止められなかった。
逆手に刀を持ったジーンは、およそ人間とは思えない速度で走り出した。
「『魔族殺し』の『怪物』よ!! どっちが柵を越えるだろうな!! お前か、俺なのかああああああああ!?」
歓喜の声を上げたヴァーロックが、大剣を迫ってきたジーンに向けて振り下ろす。大地が割れていき、砂煙で視界が覆われる。
ジーンの姿を探す。
いない。
「どこ−−−」
ヴァーロックの喉から剣が生える。背後から、容赦ない一突き。銛で魚を射止める漁師のように、やり慣れたことをやっただけ。
同じ魔法使いとして分かる。
ジーンの恐ろしさ、それは見失った時である。どんな生物にも魔力があり、魔法使いは感覚でそれを感じ取れる。嫌でもその感覚に頼った戦場ばかりを経験する。よって、その研ぎ澄まされた魔力探知の反応しない存在など、想像さえもつかないのだ。
まるで、そう。
一言で言えば−−−怪物なのだ。




