第十話 新しい日常
「おはよう、ジーン」
「……うん。おはようヘレナ」
目覚めると、既に奥の食卓にヘレナがいた。優雅にコーヒーを飲んでいる彼女は、ただ一人、読書にふけっているようだ。
まだ寝ぼけた頭だが、それでも昨日のことはよく覚えている。
「あれ、ソラリスは?」
「ソラリス? いないわよ、もう」
「………………………………………………………」
え、待って。昨日のは夢だったのか。いやでも、確かに覚えている。雪の冷たさも、ソラリスの涙も、抱き締めた温かさも。
俺は自分の目元が腫れている感覚に気がつく。間違いない、俺は確かに昨日、泣いたんだ。
あれは、夢じゃない。なのに、ソラリスはいない。
「い、いないって、どういう意味なんだ」
「言葉通りよ、ジーン」
この魔法使い、やる時はやる女である。俺は短い暮らしの中で、それを確かに理解していた。主にレインで。
「……嘘、だよな」
「嘘じゃないわ。面倒だったから」
「っ!! 面倒って、そんな言い方するな!!」
あ、と我に返る。
大声を上げてしまった。今のは、間違いなくヘレナへの攻撃だった。
だが、彼女は俺をじとりと見つめてつまらなそうに言葉を返す。それだけだった。
「ふーん。私に怒鳴るなんて。そんなにあのエルフが大事だったの」
「あ、当たり前だ!! まさか、ヘレナ。ソラリスを−−−」
「ええ。そのまさか」
「っ」
言葉を失い、目の前が真っ白になった。瞬間、玄関ドアが開かれる。現れたのは、洗濯物を籠に詰めて持っている、エルフの少女だった。
「へ」
自分でも凄い間抜けな声が出た。
ヘレナを見る。
「そのまさか。あのエルフをこき使ってるわ」
コーヒーをすすって少し笑っている。俺は一気に脱力して、ベッドの上に倒れ込んだ。
ソラリスがヘレナに声をかける。
「あの、ヘレナ。これどうするの」
「外の物干し竿にかけておきなさい。ちゃんと広げるのよ」
「分かった。あ、お兄さん。おはよう」
ソラリスは、俺に挨拶をして外に消えていった。
「……へ、ヘレナ」
「なあに、ジーン」
「昨日の、聞いてたの」
「なんのことかしら」
ヘレナは立ち上がり、俺の傍にやってくる。わさわさと俺の髪を撫でてきて、不敵に笑ってきた。
「ジーン、私はあなたと一緒にいるわ」
「あ、ああ。もちろん、俺もそうさ」
「ええ、二人の家だものね、ここは」
「……いやあ、でも、ソラリスもしばらくはいるし」
「しばらくだものね。来週いっぱいまでかしら」
「……いやあ、それは早すぎっていうか」
力強く、撫でてくる。
え、待ってこれ。なにこれ、ちょっと力強くなってる。
「二人仲良く、これからも過ごしていきましょうね」
「……もう一人くらい家族とかいたら、賑やかでよくないかなーなんて」
「朝からえっちね、ジーン。ジーンが欲しいなら私はいいわよ」
「違う!! 確かに俺が悪い!! でもそういう意味じゃない!!」
クスクスと笑うヘレナは、ようやく俺から手を離した。
「あらそう。残念。なら、しばらくは二人暮らし、楽しみましょう。まあでも、使用人一人くらいは欲しいかもしれないわね」
「……え」
「ご飯作るわ。エルフは料理、できないみたいだから」
ヘレナがキッチンに向かう。俺は部屋の窓から、ソラリスを見た。洗った洗濯物を、雪原に突き立てられた物干し竿にかけている。
俺は勢いよく外へ飛び出し、ソラリスのもとへ向かった。
ソラリスが、飯を作れるようにしなければいけない。ヘレナの気が、変わらないうちに。
「ソラリス。ヘレナは怖い」
「知ってる」
ソラリスと一緒に洗濯物を干しながら、俺はヘレナ攻略作戦会議を始めた。
「でもな、意外と優しいんだ。基本俺には優しい」
「私には基本優しくない。けど、たまに優しい気もする」
ばっと、ソラリスは俺の服を雪原に向けて大きく振り下ろす。水気を飛ばした後、少しジャンプして物干し竿にかけてくれる。
「そう。つまり気分屋だ。気が変わってしまうことがある」
「ヘレナの気が変わらないうちに、私は料理を覚えて役に立つ使用人として認めてもらう必要がある」
「うん。でないと、ヘレナに本気で追い出される。あの魔法使いに本気を出されたら……」
「勝ち目はない」
「うん……」
ヘレナを攻略せずして、この家に落ち着けるわけがない。何としてでも、ソラリスを家族だと認めさせる必要がある。
でも、とソラリスは言った。
「ヘレナ、最初に会った時は怖かったけど、それ以降はそんなに怖くない」
「まじか」
「怖いけど、なんていうか……。最初は私のこと見もしなかったの。お兄さんが寝込んでいた時。そして、私が原因だって言った」
「……よく無事だったな」
「奇跡だったと思う。あれは本気で殺しにきてた」
ログハウスの窓を見れば、包丁を扱ってキッチンを動いているヘレナがいる。
ソラリスは続けた。
「あの時は、私のことなんて見てなかった。虫でも潰すような、そんな感じ。でも、今は違う。ちゃんと私の目を見て、話してくれる。ぶっきらぼうだけど」
「そう、なのか」
「うん。だから、殺されたりはない気がする。でも、とりあえず料理はできないと」
「だな。教えるよ。簡単なものなら、俺でも作れるから」
「うん。ありがとう」
ところで、と俺は気になっていることを口にした。
「今、俺とヘレナを狙っているのは、人間の魔法使いだ。人間の魔法使いの特徴とか、なんかないのか。注意することとか」
「あるけど……複雑」
魔法。俺とヘレナの命を狙うのは、闇ギルドの魔法使いたちだ。人間の魔法使いたち。魔法について理解を深めねば、なにが命取りになるかは分からない。
ヘレナは魔法が嫌いだと言っていた為、こういう話は聞きづらかった。
ソラリスは少し黙ると、纏まったのか口を開く。
「そもそも、魔法使いの始めは魔族だって言われてるの。だからなのか、魔族の魔法は原始的なものが多いことが特徴。自然系魔法って言われる、シンプルなものが多い。炎とか、水とか、風とか、自然現象のようなものが多い」
「レインの炎とか、風の魔法みたいなやつか。でもレインは人間だよ」
「レインは、特殊。魔族寄りの魔法使い。シンプルな自然系魔法は人間の魔法使いでも扱える人が少ない。対して、人間の魔法使いで特徴的なのは、『複雑な魔法』を使うこと。人間独自で研究して発展させた魔法で、発展系魔法って言われる」
「例えば、どんなのがあるんだ」
「有名人なのは、『時の勇者』。『奈落の勇者』っていうのも聞いたことがある。噂だけど、時の勇者は名前通り時間を操る魔法らしい。奈落は、よく知らない」
「……時間。そんなの勝てるのかな、襲ってきたら。大体、勇者って何人いるんだ」
「分からない。レインなら知ってるはず」
「炎の勇者、だしな。今度聞くか」
洗濯物を全て干し終わる。話しながら淡々とこなせば、そう疲れる作業でもなかった。
「前にも言ったけど、エルフといえば回復魔法。対象の生命力を使って傷口を修復する。竜人は竜になれる変身魔法がある。こんな風にいろいろあるけど、どの魔法使いにも共通点がある」
「なんだ」
「魔法使いは魔力を感じ取れる。常にお互いの魔力を感知するから、基本的に奇襲はできない。真正面から戦い合うし、正々堂々戦うことに誇りを持っている」
「……だから、俺は魔族二人に勝てたわけね」
「魔力のない存在、お兄さんは魔法使いにとって天敵。探すのも苦労するし、暗殺される恐怖があるはず。だから、魔法使いたちもそう簡単にお兄さんを狙えないと思う」
「なんか、有名人らしいもんな俺。『怪物』だっけ。通り名なんてあるんだぜ、一丁前に」
魔力を持たない俺は、きっと魔法使いを多く殺してきた。正々堂々とせず、卑怯な不意打ちで殺してきた。『怪物』なんて言われるほどに。確かに、彼らからしたら皆当たり前に持っている魔力のない俺は、まさに怪物と言えるだろう。
だが、彼ら魔法使いは真正面から戦うことが当たり前だという。前の世界、その昔俺の国で似たような剣士たちがいた。あれと一緒だ。だから、俺がするような不意打ちで奇襲をかけてくる可能性は低い。少し、安心できる話だった。
「ただ、お兄さんだけじゃない」
「ん?」
「ヘレナ」
ソラリスは窓の先に映る少女を見つめた。料理の準備をしているのか、長く雪のように美しい髪がゆらゆら揺れている。
「ヘレナも、変なの」
「変って、なにが」
「魔力が冷たいの。感じ取るだけで凍傷になりそうな……。あんな魔力は他に知らない」
「……」
黙って、俺もヘレナの後ろ姿を見つめてしまう。
「魔法使いなら皆分かる。ヘレナは格が違う。次元が、存在が。なにか根本的に」
「……強いんだな、やっぱり」
「そんな言葉じゃ表現できないくらいにね」
ソラリスは少し眉根を寄せる。
じっとヘレナを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「可哀想だよ。あんなに強いのは」
ソラリスの言っていたことは、当たっていたようだ。食卓に座りコーヒーを飲みながら、目の前で起きている平和な光景に呆然とする。
「包丁はこうよ。それじゃ指を切るわ」
「こ、こう?」
「そのまま、引いて切るのよ。……違うわ、あなた不器用ね。それじゃ押し込んでる。引きながら下ろすのよ」
「あ、切れた」
「できるじゃない。さっさと覚えなさい。私が楽できないわ」
「うん。頑張る。ありがとう、ヘレナ」
「……こっち見て刃物持たないで。怪我するわよ」
「うん」
なんだ。怖いんだけど。もう基本的に俺以外全員近寄ったら殺すくらいの勢いがあったヘレナが、面倒くさそうにしながらもソラリスに料理を教えていた。
なにこれ。母と娘にしか見えないんだが。
のほほんとするんだが。
「ジーン、ご飯もうちょっと待ってね。ごめんなさい、エルフがどんくさいのよ」
「あ、ああ全然。大丈夫」
ヘレナに何があったのだろう。レインに向ける攻撃的な感情には、何かしら事情がありそうだった。だが、過去に因縁のないソラリスだからか、少しずつ打ち解けていっている。
「野菜は細かくして。ジーンが喜ぶわ」
「本当?」
「ええ。あとは鍋に入れて」
「うん。これはなに」
「それは食べる前に使うから、これで夕飯の仕込みは終わり。また夕方に教えてあげるわ」
「うん。ありがとう」
「お待たせ、ジーン。食べましょうか」
家族やん。
もう二人とも家族やん。ちょっと強気で不器用なママと、ただ家族に喜んで欲しいから料理を頑張る子供やん。
なんか関西弁になったが、とりあえず俺が関西弁を覚えていることが分かって良かった。
食卓に料理を並べて、三人で遅めの朝食を取る。
「なあ、ヘレナ」
「なに、ジーン」
「ソラリスと仲良くなったんだな、良かったよ」
「使えないから仕込んでいるだけよ。役立たずはいらないわ」
俺とは素直に話すのに、他にはツンツンするんだよな。もしかして、記憶はないけど俺に対しても初めはこんな感じだったのだろうか。
二人だった日常が、三人になった。
これはそんな、始まりの一日である。