第一話 白い世界に君と
少女の髪が揺れている。真っ白な世界に、優しい風がなびいている。
−−−ジーン。
誰だ。
ジーン? 誰のことだ。
−−−ジーンとね、生まれ変わったら兄妹になるの。
なんだこいつは。何を言っている。
−−−パパとね、三人で。本当の家族になりたいな。
誰だよ、君は。
さっきから何を言っているんだ。
−−−ジーン。私がずっとそばにいるよ。一人じゃないよ。だから、怖くないんだよ。
……待て。君は、そうだ。
ああ、そうだ。君は、君は−−−
−−−だからね、ジーン。目を覚まして、ヘレナを支えてあげて。守ってあげてね。
温かい。
冬の夜、ホットミルクを飲んで熱くなるような、そんな温かさが湧き上がって目を覚ます。
陽の光。
ベッドの上で眠っていた俺に、外から温かさの正体が顔を覗かせている。
太陽は俺だけじゃなく、全てを包んでいた。
一面の雪景色。白以外になにもない中、陽の光が雪の一粒一粒を大切に扱うようにキラキラと輝かせていた。
「……あれ、俺」
自分の部屋ではない。どこだ、ここは。なんだ、この絶景は。あるいは殺風景は。
パチ、と後ろで音がなった。
驚いて振り返ると、そこには立派な薪ストーブが佇んでいる。まるで、この部屋の主役は自分だとでも言いたげな様子で、堂々と火を育てていた。
ストーブには窓がついており、メラメラとダンスする炎の様子がしっかりと見て分かる。
俺の目覚めに舞い踊るかのように、狂喜乱舞するように激しく燃え動いている。
ログハウス、か。
主軸となる柱から天井床板まで、ふんだんに木を使って構成されている部屋から推測する。
うん、間違いない。
「俺ん家じゃねえ。なんだこれ」
とりあえずベッドから起き上がり、床に降り立とうとした。
「……思い出せない。どこだここは。長野かどっかの山荘? コテージ?」
意味のわからない状況に動揺したのか、やたら独り言に頼りながら今度こそ立ち上がる。
ふらつく。
貧血、だろうか。身体のバランスが取れない。ベッド横にあった小さな丸テーブルに手をつくが、テーブルもろとも下敷きにして派手に転倒する。
めちゃ痛い。
無様にうめいていると、玄関のドアが勢いよく開かれた。
「ジーン……?」
声の主の姿は、後ろから暴力的に輝く雪景色と陽の光でよく見えなかった。だが、声からして女性だということは分かる。
彼女はしばらく硬直していたようだが、やがてふらふらと酔っているような危ない足取りで俺の傍に駆け寄ってきた。
まるで突風。
思い切り抱きつかれ、ようやくその姿が顕になる。
「っ」
息を呑んだ。
腰まで伸びた真っ白な髪。真っ白な肌。痩せた身体からは考えられないほどに強い力で抱擁される。脈絡のない状況にフリーズしていると、彼女はようやく俺の肩に手を置いて身体を引き離した。
赤い瞳。
濃い、ルビーのような、瞳だった。
雪と宝石の間に生まれてきたような少女は、俺を知っている様子だ。それも浅からぬ関係のようである。
だが、もちろん、俺は……。
「君が、分からない。誰なんだ」
「いい、いいのよジーン。そんなことは、どうだっていい」
頬に手を添えられる。
なくしてしまった宝物でも扱うように俺を撫でると、彼女は美しく微笑んで言った。
「今度は私の番。もういいの」
「なに、を……」
「ただ、生きましょう」
話が分からない。
分からないのだが、なぜか、彼女の言葉には聞き流せないだけの凄みと力があった。
「ただ生きて生きましょう。朝一緒に目覚めて、一緒に働いて、一緒にご飯を食べて、一緒に歳を取っていくの。ただそれだけ、ただそうやって生きていて、いいのよ」
そして、と彼女は続けた。
「もうちょっと生きていたかったな、なんて未練を抱いて死ぬの。死んだらまた一緒にいられるかな、なんて期待を持って死ぬの」
「……平凡だが、良い死生観だとは思うぞ」
なんとなく言葉を返す。
なんとなく、言葉を返してあげたかったから。
「ふふ、そうね。そうでしょう」
彼女は俺をもう一度抱きしめた。
笑っていた。とても幸せそうに。
「はい。野菜はトロトロに温めてあるから、ちゃんと食べてね。ジーン」
「う、ん。ありがとう」
食卓についた俺と少女は、並べられたスープ、パン、目玉焼きを被ったハム料理を前に向かい合っていた。
少女は両手を合わせ、楽しそうにマナーを守る。
「いただきます、だったかしら」
「え、うん」
「ジーンの世界は素敵な文化が多くて好きよ。いつか行ってみたいわ」
「うん」
空返事しかできない。
なんだ。なんだこの状況。白髪赤目の美少女が、可愛いピンクの寝間着姿で一緒に朝食を取ってくれている。ログハウスで、暖炉で温まりながら、二人きりで。
え、本当になにこれ。
「あ、夢?」
「ジーン。スープ冷めちゃうわ。せっかく野菜柔らかくしたんだから」
「ああ、ごめん。……うっまなにこれ」
「野菜のスープ。ダシに調味料を少しだけ」
「料理うまいんだ、君」
少し。
本当に少し、少女は傷ついたような顔をした気がする。
「ヘレナ。ヘレナっていうのよ、私」
「ヘレナ。へえ、綺麗な音だね。良い名前だ」
「ふふ。うん、ありがとう」
カタン、と俺の手元からスプーンが落ちた。あれ、なんだこれ。右手が小刻みに震えて力が入らない。
ヘレナは動じることなく微笑み、自分の椅子を持って俺の隣に座ってくる。
ヘレナの使っていたスプーンでスープをすくい取られ、口元に運ばれた。
「ジーン。あーん」
「いや、いやいや。自分で食えるって」
「まだ無理よ。ジーン、身体を壊して寝たきりだったのよ。覚えていないんでしょうけど」
「そうなんだ……。俺は、いつからここで眠って−−−」
「えい」
口にスプーンが突っ込まれ、温かく甘みのある幸せが喉に流れ込んでいく。
幸せに屈服した俺は、黙ってあーんされ続けることを選んだ。
というか、なんだろう。
めちゃくちゃ可愛い顔で笑ってくるな。誰かも知らないし記憶喪失で混乱しているのに、なんかこんなに可愛い子なら全部どうでもいいかって気持ちになる。
「ジーン。おかわりはいる?」
「あ、うん。ありがとう。……ところで、ヘレナ」
「ん?」
「ジーンって……。俺の、名前なの」
今まで表に動揺を表さなかった彼女が、ついにはっきりと呆然としていた。
固まっていた表情から、力が抜けていく。
悲しそうな、顔をさせてしまった。
「……そう。そういうこと。ジーン、自分のことから全部、覚えていないのね」
「ああ、なんか、ここじゃない家で生活していたことは分かるんだ。でも、曖昧で」
「……」
「俺、なにやって生活してたんだっけな。学生、だったんだろうか。働いてたのかな」
「……私のことはどうでもいい。覚えてなくていい。けれど、あなたがあなたを失ってしまったことは、なかなか堪えるわね」
「……俺は」
「いいのよ。あなたはジーン。今は、ただそれだけでいい。今私が教えてあげたって、全て信じられるかしら。私のこと、自分のこと、ゆっくり思い出していって。時間はあるわ」
スープのおかわりを取りに、ヘレナは立ち上がった。その後ろ姿は、やはりどこか寂しそうに見える。
確かに、俺はヘレナのことを何も知らない。いやめちゃくちゃ可愛いことは知ってるけど、他になにも知らない。よく知らない人間から聞いた自分の話をすんなり受け入れられるとは、俺自身思えない。
彼女は俺に敵意はない。
家族だったのか、恋仲だったのか、友人だったのかは分からない。だが、浅からぬ関係であったことは、こうして世話をしてもらっていることから間違いはないだろう。
彼女の言う通り、焦らず生きてみるか。
きっと、そのうち、思い出すはずだ。
大したことのない、平凡な思い出を。
外に出る。
思いの外、震えるほどの寒さではない。陽の光が気持ちいい。冬のゲレンデを独り占めしているような気分だ。
ゲレンデ。スキー場とかあったな、そういえば。ううむ、スキーのことは覚えているのか。
なんか結構どうでもいいことは覚えているんだな、俺。
「何者なんだ、俺」
真っ白な雪景色の中、白以外になにもない地平線を眺めながら、ふと本音が漏れた。
何者。
なにをしてきて、なにをやって、このような雪しかない秘境のログハウスで少女と二人暮らしているのか。
「悪い奴じゃなきゃいいんだけどな」
「ジーンは世界一優しいわよ」
「うわ」
耳元で聞こえた綺麗な声に振り向くと、ヘレナが相変わらず可愛い顔をして立っていた。白いコートに赤いマフラーを巻いた彼女は、ブーツで雪を踏み締めて隣に並んでくる。
「大丈夫。ここには何もないわ。敵も、恐怖も、悲しみも」
「……俺たち、いつからここで暮らしてるんだ」
「一年くらい前ね」
「一年も……」
あ、とヘレナは何かに気づいたように走り出した。後をついていくと、なにやら手で雪を掘っている。
「なにしてるんだ」
「これ」
掘り当てたのは、瓶だった。中には赤い液体が詰まっている。
「なんだ、それ」
「お酒。美味しいわよ。冷やしてたの」
「雪で冷やすって……。あ、俺も昔コーラ冷やしてたわ」
子どもの頃、スキー場でコーラを雪に埋めてキンキンに冷やしていたことを思い出した。思い出すと、つい懐かしくなって頬が緩む。
というか、そんな子どもみたいなことを目の前の綺麗な少女が現在進行形で行っていたことに笑ってしまった。
「あー、なんでそんなに笑うのよ。もとはジーンが教えてくれたんじゃない」
「あはは。俺がか」
「そうよ。ひどいわ」
「ごめんごめん。いや昔やってたけどさ、ガキの頃だったしさ」
俺の笑いとは違い、包み込むような優しい笑みをヘレナは浮かべる。
「ふふ。昔のこと、また一つ思い出せたのね」
「あ……。みたい、だな」
「ね、大丈夫。ゆっくり思い出せるわ、全部」
「……うん。ありがとう、ヘレナ」
ヘレナなりの、気遣いだったのだろうか。だとしたら、彼女はどうして、そんなにも俺に尽くしてくれるのだろうか。
いろいろ思い出したいことは山積みだ。
だが、なによりも、目の前の綺麗な少女のことを真っ先に思い出してあげたいと心底思った。