第一楽章 kiyotaro model
好きな人の見ている世界を、のぞけたら?
夏は、魔がさしやすい季節なのだろうか。
俺は、好いている女の大事な物に触れてしまった。
後戻りできない、許せ。
俺の名は、大徳寺清太郎。文武両道、成績優秀、眉目秀麗。何をやっても様になる俺に、ひとつだけ苦戦しているものがある。
恋だ。しかも、道ならぬ恋。相手は、大徳寺風見子。一学年下の、妹だ。
「よろしくお願いしますね、兄様」
去年、風見子は「鶏井」から「大徳寺」に名字を改めた。簡潔に言えば、血のつながっていない家族。親父の再婚相手が連れていた娘だ。
俺が高校受験を控えていた年に、お袋が急逝した。親父はお袋に経を読んでやってすぐ、再婚しやがった。あの生臭坊主、家事や寺の事務関係を回していけない名目で、新しい女を連れて帰ってきた。性格だけではなく頭もさっぱりとした継母だった。ささくれにささくれだつ俺の心を一瞬にして癒してくれたのが、風見子だった。
親に似ず穏やかで、気が利いて、不満を少しももらさず家事と雑用をやってくれる。妻にしたい人ランキングで間違いなく一位の、かわゆい娘だ。
「兄様、わたくし、兄様の後輩になりました」
風見子は頭も良い。入学式の新入生代表挨拶を務めた。俺を慕っているのか、同じ部活に入り同じトランペットパートに加わった。風見子といる時間が長い、本入部の夜、俺は枕を抱きしめて畳を端から端まで転がった。
時は夏休み、コンクール合宿の二日目、朝飯を食べた後のことだ。
一時間自由を与えられ、部員のほとんどが川遊びに出かけた。俺は読書感想文の課題図書を再読しようと宿舎に残るはずだったが、荷物持ちをさせられてしまった。
「どうせキヨちゃんは暇でしょう? かよわい女子達のナイトにでもなりなさいよ」
トランペットパート同期のリンこと河野果燐がでかい声で命令してくるものだから、黙ってついてきてやった。部活は女子三十人に対し、男子は三人。力関係は、言わずもがなだろう。
「かよわくないだろうが、ゴリラ集団」
ああ、風見子。おまえは健気だな。ゴリラの山に咲いたひなげしよ。
「キヨちゃんジュース取ってー」
「そこにいるなら自分でと」「ハア!? 取りなさいよインテリ小男!」「……おう」
コンプレックスを言われて、情けなくもリンに従った。
荷物持ちは損ばかりではなかった。水と戯れる風見子を拝めるからだ。ゴリラどもは下品にも体操着の袖を上下ともにまくっていたが、風見子はレインコートをはおっている。誰か貸してくれたのか水中ゴーグルを……。
「裸眼!?」
いかん、裸眼の「ら」で煩悩がわいて出てくる!
「キヨちゃん、皆のタオル出しといてよー」
宿舎に露天風呂があったが、バリトンサックスのあいつが女湯をのぞいたら老婆の湯浴みに気絶したと言っていたな。いかん、いかん、経でも唱えて落ち着け。タオル! タオルを準備せねば。
ビニールバックの近くに、風見子の眼鏡が控えめに置いてあった。ピンクゴールドのオーバルフレームだ。
「あいつら、夢中だな……」
俺の手はバックではなく、眼鏡に伸びていた。
「今しかできない」
風見子と間接キスならぬ、間接メガネ。いや、かけるのだから直接、か。
「兄が妹の物を触ることは、悪事ではない」
悪事というものは、パート練習の休憩中に不意を突いて俺の眼鏡を外し取り、度を確かめるふりをしてかける行いを指すのだ。リンめ、いつか責苦を受けろ。
俺は、好いている女の大事な物に触れてしまった。
後戻りできない、許せ。
甘い毒の瓶を、俺は開けた。
「キヨちゃん! タオル出してって言ったじゃない! なにボケっとしてんの!?」
俺は反射的にリンへと振り返った。莫迦者、こんなところを見られたら、笑われてしまう!
「…………うそーーーーーん」
そう言わざるをえないものを、俺は目の当たりにしたのだった。