反戦論
私の反戦論は単簡明瞭である。
まずは本論に入る前に戦争とはどういうものか見解を述べる。
戦争とは資本家によるチェスであり賭け麻雀である。兵隊(労働者)は消耗品の人間兵器であり、また戦争の勝ち負けは労働者には全く関係ない。例として、アメリカやソ連は戦勝国だが、敗戦した枢軸国からは技術と領土を受け取るのみだ。技術は限定されており、ロケット技術とジェット機技術など兵器開発に絞られた。このようにアメリカ、ソ連両人民には全く利益にならない戦勝であった訳である。兵隊(労働者)とかけ離れたところで取引されて終末を迎える戦争は、資本家のみが利益を享受できるカジノであると私は断言する。では早速本論に入ろうと思う。
現在の産業において、機械化されつつあるが尚労働者が生産の手段を握っているのは公然の事実だ。その上で、私はまず労働者の団結が必要だと考える。労働者の団結がなければ全ての運動体はダークマターのように空虚で見えない存在となり、個別事業に留まる。つまり労働者=プロレタリアートは団結し、運動体は組織せねばならない。これが第一だ。
次にプロレタリアートの議会、プロレタリアートの経済を回すためプロレタリアートの権力を資本家から収奪する。この過程に於いて注意せねばならないことは資本家=ブルジョアジーの暴力装置との衝突だ。例としては軍隊や警察がある。つまり、権力者の防衛機関を粉砕しないことには権力を奪取する事はできない。だが彼ら資本家暴力装置(防衛機関)には決定的な弱点がある。労働者がいなければ存在すらし得ない、という事である。プロレタリアートの団結により実質的な公務ストライキや武器製造過程の破壊。これが第二だ。
砦となる最後はプロレタリアートの政府打倒にある。団結したプロレタリアートは生産手段を奪取し、資本家暴力装置を機能停止に追い込み、資本家を文字通り包囲する。政府運営が破綻すればプロレタリアートによる議会や経済が初めて開かれ、プロレタリアートの解放が達成される。すなわち、戦争するためのブルジョア的侵略主義がない政権が樹立され、軍事的背景なしに他国と対話することが可能となるのである。
これが私の反戦論でるが、細かく付け足せば、日本は防衛部隊の配置はやむを得ないと考えている。日本(の資本家)が敵対国と位置付けている国に中朝露がある。絶えず資本家の監視下にある中国労働者人民と朝鮮労働者人民や地理的な問題があるロシア人民は日本労働者は連帯しきれておらず、労働運動も統一されてない。中朝露の資本家軍事侵略政権を日本労働者人民が打倒するのは現実的な話ではない。その上で日本には最低限の防衛部隊は必要である。これが現在の自衛隊とどう違うのかと問えば簡単で、侵略主義者である資本家が運営するかプロレタリアートが運営するかの違いがある。東西中立軍として、日本労働者防衛部隊として最低限軍事力は必要だ。
反戦運動の展開は容易ではない。団結と一言で言っても方法はどこにも載ってない。だからこそ幾千の方法を試し、錯誤しながら一歩一歩歩んでいくしかあるまい。これが私の反戦論であり、反戦闘争である。