拾玖
手を合わせ目を閉じる前までは確実に誰もいなかったその場所に、ひとりの男が現れていた。その男は白い襦袢に藍鼠色の長着を重ね、藍鉄色の平袴を穿いて、祠の上に胡座をかいている。袴と同色の羽織の裾が、ひらひらと風に遊ぶ。その顔は、艶のない漆塗りの黒い猪の面で被われていた。よく見るデフォルメされた可愛らしいものではなく、長い鼻面に皺の寄った、勇ましく猛々しい猪だ。目の部分には黒々とした石が嵌まっており、覗き穴がないようだった。
沖田がその姿を認識していないことからもわかるが、なにより今にも崩れそうな朽ちかけの祠に腰かけられているのだから、人間ではないことは確かだ。
いや、「ひとりの」とは言ったが、この場合は「ひと柱の」と言った方が良いか。ピリピリと毛が逆立つ感覚に、柊は確信していた。
──これは、『神格』だ。
神の類いには、それら特有の気が漂っている。それは柊の家でもときたま耳にする、「神威」と呼ばれるものだ。目の前に坐すお方からも、決して強くはないが、それが滲み出ていた。
「四辻くん? どうかしたのか」
「……あなたは、神を信じますか」
「……………………は?」
──あ。
訊いてしまってから、気づいた。これではまるであやしい宗教勧誘のようではないか。柊は無表情のまま、あちゃーと心中で焦る。
「いえ、そういうわけではなく」
「え、いや、は? ……なに?」
「あー……忘れてください」
怪訝な、道ばたに転がって喚き散らしている酔っぱらいを見るような目を向けてくる沖田。柊は視線を逸らす。
こんなことをやっている場合ではないのだ。
「ともかくですね──信じていても信じていなくとも、迂闊なことは喋らないでください。できれば目も伏せて。気を損ねればなにが起こるかわかりません。死にたくなければ、俺の指示にしたがってください」
柊は沖田にギリギリ聞こえるくらいの大きさで囁いた。
「え?」
「…………サトリ先輩の指示でもあります」
「う、うん…………。…………わかった」
やはり新入部員よりは「変人」としての信頼度が高いのか。左部の名前を出すと、事情はわからないながらもたじろぎつつ沖田は了承し、指示通りに地面へ目線を落とした。それを視界に収めた柊はひとつ頷き、神格と間違っても目を合わせないよう気をつけつつ祠へ顔を向ける。かの人は今の会話を聞いていたのかいないのか、先ほどから微動だにしないままそこに鎮座していた。
──お前、見えるものだろう──
鼓膜を揺らすのではなく、脳に直接送られたような音。男性的な、低く落ち着いた声だ。しかし本物の男性の声とは違い音のブレはなく、実際に声に出されたらその空間によく通るだろうことを予感させる。
柊はぴくりとも身体を動かさないまま、「はい」と簡潔に答えた。
ばれているならば隠したところで面倒なことになるだけだ。姿を見たなと不敬とされることもあるらしいが、神は基本、生来見えるものには危害を加えない。そういうものだと理解しているからだ。神格ではないあやかしたちは、逆にその力を目当てに襲ってくるものもいるが。
──ふむ。耳も良いようだな。先程其処な小僧がわたしに「ひろうかた」かどうか訊ねていたが──
神には拝んだ内容が聞こえている、というのはどうやら本当らしい。
「はい。神に問うなど誠に失礼なことを致しました。どうかご容赦くださいませ」
柊は冷や汗をかきつつ、深々と頭を下げた。柊が一人芝居をしているようにしか見えていない沖田が、その隣で狼狽えている。が、先ほどされた忠告を忘れていなかったようで、口は閉じたままだ。見えないまでも、何か感じてはいるのかも知れない。
──わたしはひきあぐるのではないぞ。探しているのなら其処らの妖怪どもに訊いてみるがよい。彼奴は常に力を撒き散らしているからな、直ぐにわかる──
「──はい。ご助言心より感謝申し上げます」
まさか咎められないどころか助言まで貰えるとは。一瞬驚きで言葉が詰まったが、なんとか礼を失しない程度の返答をした。
──そこまで畏まる必要はない。わたしは所詮捨てるだけの神。敬意のないものにはそれ相応に返すが、お前たちはそうでない。面を上げよ──
思いもよらない命令に、流石の柊もひくりと眉を動かした。従えば何か気を損ねてしまう可能性が上がるが、かといって従わなければ不敬にあたる。
数瞬迷った結果、柊は「畏れ入ります」と目を伏せたまま顔を上げた。
しゅるりという、上品な衣ずれの音がする。伏せた柊の目が眼鏡のレンズを抜けて、長めの前髪のすき間から、立ち上がった神格の足もとを映した。相変わらずボロボロな祠の棟の上にバランスも崩さず立っている彼の足は、足袋に覆われているだろうという予想に反して、何も履いていない。健康的な色の足先が、体重というものを全く感じさせない様子で、瓦がいくつか剥げて腐りかけの木が露出したそこに触れている。
とっ。と、軽やかな足音がすぐ目の前でして、柊は緊張で身体をこわばらせた。頭ひとつ分上のあたりから、猪の面が湛えるくろぐろとした石が、柊の目を覗き込んでいる。その視線に乗った神威に、柊は肌がピリピリと焼かれる感覚を覚えた。その隣では沖田が脂汗を吹き出しながらしゃがみこんで、砂利の多い地面から決して目を動かさないようにしている。
──お前、こちら側か?──
岩清水のようなしっとりと落ち着いた声が、再び柊の脳を揺さぶる。
「……………………」
彼は感情を表に全く出さないまま、はくりと口をわななかせて、
「────わかりません」
やっとそれだけを絞り出した。




