拾陸
ざくざく。傾斜の比較的緩やかな山道を踏みしめて、依頼主と共に登っていく。山の中は町よりも気温が幾分か低く、生い茂った木々により日陰も多いとはいえ、5月も中旬を過ぎた今の時期は、動けば汗ばむほどに暑い。ここへ来る前に見た湿度計に表示されていた、少しだけ増えた湿度の値が、梅雨の気配を感じさせた。
前を行く沖田は、道の途中にいくらかある分岐点にも迷う素振りもなく、どんどんと進んでいく。毎年登るのだと言ったその言葉は嘘ではないようで、まだ中腹ではあるものの、ここまで疲れたような様子は見せていない。
山登りは、慣れていない者にとっては体力を削られるものだ。斯く言う柊は、本家が人里離れた山中にあるのに加え、ときたま本家から回される仕事でこうした場所を歩く機会が多いため、沖田の気を遣わない歩みにも問題なくついていけている。
「……ゆく道はわかっていらっしゃるのですか」
「うん。いつも同じ道だから。途中に何を祀っているのか俺は知らないけど、祠があったはずだから、取り敢えずそこまで行こうか。ただ……」
沖田は柊の問いに足を止めることなく答えた。はっ、と短く息を継いで、しばし言い淀んでから気がかりを口にする。
「その祠ってほんとにちっさくてさ、今にも壊れそうなぐらいのやつなんだよね。あそこにほんとに『ひろうかた』とかいう──神様? が、いるかって言われると……」
ちょっとアヤシイよな。
爽やかなスポーツ少年を思わせる顔が柊に振り向いて茶目っ気のある笑いを溢し、そのまますぐに前を向く。
小ぶりのリュックサックを背負いずんずん行くその背中を見ながら、同じような荷物を背負った柊はここにはいない人の無茶振りを思い返し、浅く息を吐いた。
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蛙の夢について文研に相談をしてきた沖田円は、前回の訪問からそう日を置かずにまた地学教室へやってきた。
それは奇しくも金曜日の放課後で、相談の内容を話して聞かせたことでいたく興味を持っていた諒が、またも生徒会へ駆り出されている日だった。今回の相談は諒が関わる間もなく解決せよという、天からの思し召しなのかも、と、柊は冗談交じりに思う。情けないことに柊は、まだ親友に自分の力を打ち明ける勇気を持ててはいなかった。
残念ながら左部の渡した悪夢避けの御守りは効かなかったと苦笑しながら語った沖田は、前回の別れ際左部に掛けられた言葉を忘れていなかったらしく、「家族にも訊いてみたんだけど……」と話を切り出した。曰く、彼以外の者は皆、「そんな夢は見ていない」とのこと。
「ただ、意外なことに、誰も俺の夢を笑わなかったんすよ。あ、いや、姉ちゃんにはちょっと揶揄われたけど」
恥ずかしそうに後頭部をかく。
「父さんが、『そりゃあ蛙さんじゃないか? でっかい雨蛙に4匹の小蛙とくりゃあ、俺の実家があるとこで道端によく祀られてた蛙さんだろう』って。それを聞いた母さんもなんか言い出して、『そういえば、鞄につけてた蛙の御守りはどうしたの?』って訊かれたんだよ」
「御守り?」
「うん。それでやっと思い出したんだけど、俺、木彫りの雨蛙の御守りを、登山用のリュックサックにつけてたんだよ。御守りっつっても、ストラップみたいなもんで」
これくらいの、と指で3センチメートルほどの長さを示す。
「ははあなるほど。それじゃあ君はそのストラップを、この裏の『おやま』で落としたわけだね?」
「たぶん」
合点がいったというように指を組んだ左部に、沖田は曖昧に頷いた。
「……沖田先輩のご尊父のご実家の辺りでは、蛙を信仰してらっしゃるのですか」
「ごそんぷ?」
「君の父親のことだよ」
「ああ……」
左部が口を挟んだことで柊の質問を理解した沖田が、俺も詳しくは知らないけど、と前置きを挟んで話し出す。
それによると、彼の父の実家は農家らしく、近隣も同業ばかりという、いわゆる農村であるらしい。そこでは、雨を連れてくると言われる雨蛙を氏神として祀っているそうだ。道端の至るところにその像が地蔵の如く置いてあり、それはたいていが大きな蛙が1匹、小さな蛙が4匹というセットで祀られているとのこと。
「お供が4匹というのは、『四』が神聖な数字だったからかな」
「え、4って縁起悪い数字じゃないんすか?」
「確かに、今では『し』という音が『死』に繋げられてそういう風潮があるけれどね。もとは四の字は『よ』としか読まなかったから、『よい』に紐づけられて、逆に縁起のいい数字だったんだよ。ほら、ひいふうみいよ、って数えるでしょう。それに、四つの時や四方、四面といった言葉に使われているように、完成を意味する数字でもある。因みに四つの時っていうのは、春夏秋冬の四季のことね。四面は周囲すべてとかそんな意味。有名どころだと、源氏物語の『鈴虫』で『夜の御帳の帷子を、四面ながらあげて』なんて一節に使われてる。訳としては、『夜に御帳台──イメージとしては蚊帳が近いかも──の四方に掛けてある帷子を全部上げて』となるのかな」
蘊蓄をすらすらと述べていく左部に、沖田はへえー、と感心したふうに相槌を打った。恐らくほとんどを聞き流している。柊も似たようなものだが。
「俺はカワズサンの由来を聞いたことがないんで、お供の数がどうとかはわかんないなあ」
「まあ、普通は興味なかったら人に訊いたりもしないだろうしね」
実際のところは不明のままだが、左部はそれに残念がる様子も一切なく、にこにこと人の好い笑顔を浮かべている。
このままでは蘊蓄の垂れ流しで時間が消費されてしまうのではないかと心配した柊が、話を戻そうと口を出した。
「それは兎も角、その蛙さんとやらは、沖田先輩のご覧になった夢に出てきたものたちとぴたりと一致しますね」
「そうだねえ。これはもう、夢の蛙は神の類いだという線が濃厚になってきちゃったな」
困ったねえ……と背もたれに寄りかかり、ギシギシと思案げに体を前後に揺らす。沖田はその様子を、愛想笑いは辛うじて浮かべつつも、怪訝な目で窺っている。
「うーんこわいなあ。どこまでの介入なら許されるかな……。いくら農村のちびっとの信仰しかなくとも、神は神だし……。……というか神なら眷属かなにかでも使って自力で帰ってこられないの? まったく、困りものだねぇ……」
「あの……?」
「ああ、ごめん。こっちの話」
口の前に手を遣りながら何事かぶつぶつと呟いていた左部は、困惑した様子の沖田に声をかけられて、ぱっと顔を彼の方へと戻した。




