玖
メモ帳をぱたりと閉じて、ポケットの位置を見る。黒い表紙がポケットにすっぽりと収まったのを確認して顔を上げると、先ほどよりも極々近い場所に、笑い上戸の先輩の顔があった。
「っ……」
驚きで息を詰めた。柊と左部の顔の間の距離は、恐らく10センチメートルにも満たない。息がかかるほどの距離。
「……何ですか」
「んー? ちょっと」
近すぎる左部から逃れようと回転椅子を引こうとしたが、ガッと背もたれを掴まれてそれは叶わなかった。
腕を伸ばしたほどもない長机の幅と、普段ならば座り心地の良い背もたれが、このときばかりは恨めしい。
「……おい」
身を捩るが、なおもじーっと己の瞳を見つめてくる左部に、不機嫌な声音で抗議する。しかしそれでも退かない。
何がしたいのか全くわからない。
内心舌打ちをしながら、柊は左部から目を逸らす。ひとと真正面から視線を交えるのは苦手だ。
十数秒ほどだろうか。しばらくそうしていると、ほんの少し左部の顔が遠ざかった。
やっと解放してくれるのだろうか。
そう思って左部の方を見る。すると、何かがぬっと柊の顔の前に翳された。
ひゅっと喉が鳴ったのを自覚する。
手だ。長い指が、こちらへ伸びてくる。
呼吸が乱れて、やり方を忘れてしまったかのように鼻の奥がひきつって震えた。
指、が。ひと、の、指が、俺の、目に、目を──
──バチィッ。
一瞬だけ強い光が網膜を焼き、電気がショートしたときのような音がした。
「いっ」
左部が痛がる声が、柊の鼓膜を揺らす。
目を見開いたまま動けなかった柊がゆっくりとそちらを見ると、指先を押さえて椅子の上で前屈みになる左部がいた。
は、と息を漏らす。目を守ろうとして手を上げて、そこで初めて自分が震えていることに気がついた。
左手で右腕を抑える。右手で両目を覆う。
カツン。眼鏡が膝に跳ねて、床に落ちた。
危険なものから離れるために地を蹴って、ずり、と足が床の上を滑った。バランスを崩して、椅子から身体がずり落ちる。
制服が汚れるのも気にせずぺたりと床に座りこみ、手を目に当てたまま、身体を丸める。
目の、奥が。目玉の奥が、じくじくずくずくと痛みを訴える。幻痛だとわかっているのに、脂汗が出るほどに、痛い。
しばらくその体勢のまま、はっ、ひゅぅ、と下手くそな呼吸を繰り返した。
「──ごめん。……だいじょうぶ?」
だいぶ落ち着いた頃、いつの間にか元凶が隣に来ていた。のろのろと顔を上げる。柊の目の近くで、何かが小さくパチパチと弾けた。
左部が腰と膝を曲げて手を差し出している。右手。さっきはどちらの手か確認する余裕はなかったが、柊が弾いてしまったのは左手だったらしい。左手の指先からてのひらの真ん中辺りまで、薄赤い円が斑に散っている。痺れているのか、手が震えているし、舌がうまく回っていない。むしろ、あれだけ弾かれて、今立てていることが奇跡だ。
「……すみません。怪我を、させてしまって。大丈夫ですか」
ゆっくりと深呼吸をして、左部の手をとらずに自力で立ち上がる。落ちていた眼鏡を広い、割れていないか確認してから掛けた。
「いや、だいじょうぶ。君は悪くないよ。ぼくが軽率だった。本当にごめん」
ばつの悪そうな表情で、神妙に深々と頭を下げる。
そうですねと言いそうになったが、ぐっと堪えて「…………いえ」と絞り出した。
「……痕が」
「うん?」
僅かに首を傾げた左部が、柊の視線を追って、自分の手を見て「ああ、」と納得したように溢す。
「大丈夫だよ。これくらいなら、なんとかなるでしょう。障害も残ってなさそうだし」
本当に気にしていないようにあっけらかんと左手をぷらぷら振る。
「すみません。家から薬を持ってきます」
「本当にいいのに」
「いえ、俺の制御が甘かったせいもありますので」
頑なな柊に困ったように眉を下げて、仕方がなさそうに左部は柊の提案を受け入れた。
「……そう。じゃあお言葉に甘えさせてもらうけれど、薬でどうにかなるようなものなの、これって?」
「……なります」
「その薬って、霊薬とか妙薬とか呼ばれるやつじゃあないよね」
「良薬でもあります」
言い訳のように同じものの別名をさらりと述べた柊に、左部が苦笑する。
霊薬、もしくは妙薬、良薬などと呼ばれるものは、不思議な効力を持つ薬のことだ。時折神薬と呼ばれたりもする。手に入れられるのは、たいていがあやかしから貰ったり神から下賜されたりする場合のみだ。
「そんな貴重な薬、こんなことに使っちゃあ駄目でしょう」
「こういうときのために薬はあります。……叔母が、そういうものを作るのが得意な人なので、使っても問題はありません」
「いやあ、いくら得意でも、流石に霊薬は人間には作れないでしょう。あれはあやかしものか神の類いの秘薬だもの」
「…………」
柊が口を閉じた。沈黙。けれどそれは、都合の悪いことを言われたがゆえのものではなく。
え、まさか、というあり得ない予想が、左部の口からついて出た。
「まさか、作れるのかい?! 君の叔母さんが? あの霊薬を?」
矢継ぎ早に注がれる質問に、無表情で返す。それはもう肯定しているようなもので。
左部は愕然としたあと、はは、と自棄のように笑った。
「そりゃあ凄い」
厳密に言えば、叔母は妖力霊力といった類いの力を一切持っていないため、霊薬を完成させることはできない。しかし、完成の手前までは作ることができる。決定打がないだけで、下地を作る能力はあるのだ。その一歩手前までこぎ着けることができたなら、あとは柊が、成ったモノからの直伝の方法で力を込めれば良い。
霊薬の作り方は柊経由で叔母に伝えられたものであるから、本家の人間は叔母と柊が霊薬を作れることを知らない。一歩手前までいけるただの人間が、どれだけ貴重なことか。「無能」だからと彼女を放逐する選択をした本家は、実に惜しいことをしたと柊は思う。霊薬だけでなく、彼女ならばどんなまじない薬でも調合できてしまうというのに。
しかしいかに作ることが可能であろうと、材料を集めるのが至難の業であるため、霊薬が貴重なことには変わりない。けれども、あるなら使わねばもったいないというのが叔母の掲げる持論であるため、「こんなこと」に使ってもきっと怒られはしないだろう。呆れられはするかもしれないが。




