漆
「失礼します」
教室に戻ると、真っ黒な暗幕の向こうには、予想通りにやけたままの左部が座っていた。レンズの奥の赤茶の瞳が、柊を見ている。
「おかえり」
「……戻りました」
どう返すのが正解か一瞬迷ったあと、柊は無難な言葉を選んで、左部の真ん前ではなくひとつずらした斜向かいに腰かけた。
それを長机の上に組んだ両手に顎を乗せたまま静かに眺めていた左部が、口を開く。
「で、どう思う?」
「どう、とは」
「蛙の夢について」
「ふう」と「んー」の間くらいの音で息をついて、スラックスのポケットから黒い表紙のメモ帳を取り出す。ペラペラと捲り、柊は軽く机に肘を置いた。
「蛙が歌っていたということをまとめると、要するに『おやま』で『ひろうかた』に拾われたから、取り返しに来い、という要求ですよね」
「あれ、メモとってたんだ。真面目だね」
「……いえ」
どちらかと言えばまめではない柊は、普段からメモをとるタイプではない。しかし、あやかしや怪異など本家の家業に関わることは、柊の人生にも深く影響してくるため、いかに面倒だろうとその都度メモをとらざるを得ないのだ。知識は武器であると教えられた。
「へえー」と小さく漏らしながら、左部が身を机の上に乗り出す。覗き込んだそこには、文研部員にとっては見慣れた線が書きつけられていた。
「うわ、君、草書で書くんだねえ」
それなりの強弱がついた、迷いのない筆の運びが見てとれる。見慣れぬものには一文字も読めないであろう書体で、てのひらに収まるほどの大きさのメモ用紙には、「雨蛙の様な蛙達 大一 小四 光る水 蓮の葉」と縦に書かれている。その横には、蛙たちが歌っていたという科白が、平仮名で全て記されていた。
「速いので」
一字一字切り離して、全ての画を書くのは時間がかかる。草書体で縦書きで書く方が、断然時間を短縮できる。草書体は行書とは違い漢字ひとつひとつの書き方を覚えなければ使えないが、覚えてしまえばとても便利なものだ。家業の関係で幼少から慣れ親しんできた柊にとっては、草書で書く方が簡単だった。
──それに、アオのところではこの書き方しか教えられなかったから。
小学校に入学することになって、やっと現代で一般的な書き方を学んだのだ。あの頃はつい癖でなんでも続き文字で書いてしまって、テストやノート提出の成績が悲惨なことになっていた。横書きの回答用紙に縦書きで記入していたのだから、その結果も当然である。
しかしノート提出の点では、高校はプリント提出はあっても板書の提出はないため、柊にとってやりやすい。存分にノートにシャーペンを高速で走らせている。シャーペンでは強弱があまりつかず書きにくさと読みにくさはあるが、それさえ我慢してしまえば利点の方が多い。現代文や古典の授業では草書体を重宝していた。
他人から見れば蚯蚓がのたくっているようにしか見えないだろうが、柊は基本自分が読めれば良いというスタンスであるため、今さら丁寧にノートをとる気はない。ましてやメモなど、他人に見られることなど滅多にないものに気を遣う気は微塵もなかった。
読めるの? と訊ねる左部に、読めなかったら書きません、とそっけなく返す。
「ああ、でもそうか。古くから続く祓い屋の家計なら、書体も古い書物も読む機会が多いんだろうね。御札とかもそういった字体を使うんだろうし。読み書きできなくちゃあ仕事ができないのか」
「ええ」
なるほどなるほど、と、左部が感心したふうに何度か頷く。
「……そう仰る先輩も、普通に読めますよね」
なにせ、あんなに古い書物の詰まった準備室を持っている文献研究部に所属しているのだ。読めなければあれらの文献が用なしになってしまう。
「ああ、まあね。読めるけど書けない、って感じかな。ぼくの場合はもともと家の納屋に転がってる古書を小さい頃から読んでて、なんとなくは読めてたから。ちゃんと学んだことはないけれどね。本来新入部員は先輩から読み方を教わるそうだよ」
「……俺たちは、まだ教わっていませんが」
「あはは。ぼくが教わらなかったものだから、つい忘れてた」
「…………若松には教えてやってください。ここに来る頻度は低いでしょうが、あいつもきっと、古いものは好きですから。あそこの書物も読みたいと言うでしょう」
あそこ、と言いながら隣の準備室をさし示す。
諒も一度だけ準備室を覗いたことがあるのだが、「これだよこれ! すごいな~」と興奮していた。彼の想像する『文献』、あるいは『古文書』象に当てはまったらしい。思考や見た目はマッドサイエンティストだし地学大好き男ではあるが、彼はもともと文系なのだ。日本の古典関係は柊と同じく肌に合うらしい。更に本好きでもあるため、おおかた古い紙と薄れかけの墨やインクのにおいに反応してつい昂ったのだろう。部屋じゅうを練り歩いてしげしげと棚の紙束を眺めていた。
「ああ、もちろん。若松くんも文研の一員だし、ぼくも先輩としての役目を果たさなくちゃだしね」
左部は笑顔で快く承諾して、「それはそうと」と脱線した話の軌道を修正した。




