陸
しかし左部は電気もつけず入っていったが、そんな状態で動けるのだろうか。あの部屋は書物を守るためにあまり陽が入らないようになっているから、部屋のなかは相応に暗いはずなのだが。
柊がごそごそと物音の漏れ聞こえてくる地学準備室を見つつ心配していると、件の部長は「おまたせ」と軽く手を降りながらひょっこりと顔を出した。柊の心配は杞憂だったようで、暗闇のなかでも問題なく目的を果たせたらしい。歩いてくるその手には、何か小さな、御守ほどの大きさの袋が握られている。
「はいこれ」
「?」
笑顔ですっと手を差し出され、沖田は頭上に疑問符を浮かべながらも、受け取るために片手をおそるおそる伸ばす。上に向けられたてのひらに乗せられたそれは、本当に御守のような、けれど御守よりはふくらみの大きい青布の袋だった。しっかりとした布を使っているのか、安い印象は受けない。
「これは?」
しげしげとそれを眺めていた沖田が、顔を上げて左部に問う。
「夢見の御守。まあ、所詮素人が作ったものだし、そもそも蛙の夢は悪夢とは言いがたいから、効果があるかはわからないけれどね。気休め程度に」
「なるほど」
「ただ、根本的な解決にはなってないから、頼りすぎないようにね」
「了解」
感心したように頷いた沖田は、「ありがたくもらっとく」と御守をスラックスのポケットに突っ込み、立ち上がった。
「じゃあ、とりあえず今日はこれで」
「ああ」
足下に置いておいた荷物を持ち上げて肩にかけた沖田に、左部も立ったままにこやかに返す。柊も立ち上がり、扉に向かうふたりの後ろを静かに追った。
「今日はありがとうございました。なんかわかったらまた来ます。まあ、解決するまでは通うことになるかもですけど」
暗幕を退かしつつ引き戸の外に出て、沖田は軽く背を曲げて苦笑する。にこにこしたままその様子を見ていた左部が、「ぼくも気になるから、じゃんじゃか来てもらっていいよ」と社交辞令でなく本心から言った。沖田はひとつ頷くと、もう一度会釈して横を向き足を踏み出した。ふたりも廊下に出て見送る。
ゆっくりと遠ざかっていく彼の背中に、「ああ、そうだ」と何か思い出したように左部が声を投げる。沖田が足をとめて、上半身だけ中途半端に振り返った。
「からかわれるから言いたくないと思っているんだろうけれど、君の家族にも同じ現象が起きていないか訊いてきてくれないかな? 家族で『おやま』に行ったのなら、君以外の人物も同じ夢を見ている可能性があるから。よろしくね!」
去ってしまう前に、と焦ったからか若干の早口で一方的にまくし立てた左部に、沖田は驚いたようにそのぱっちりとした目をさらに開いて、その後少しだけ眉根を寄せた。しぶしぶといった様子で彼が頷く。と、明確な返事がないことに業を煮やしたのか、再度「よろしく!」とだけ手を振って、終始にこやかな文研部部長は教室に引っ込んでしまった。
こんなに強引な男だったろうか、この先輩は。柊は呆れを込めた視線を左部のいる方へちらりと投げる。今まで接してきたぶんには、強引というよりは笑顔のまま飄々とひとを振り回したあげく、勝手に自己完結してしまうような人間だったような──とそこまで考えて、それはもう強引と言うのとたいして変わりないか、と思い直した。
なかなかに失礼なことを考えているが、左部という人間を言い表そうとしたら、誰であっても似たような表現をするだろう。さも常識人のような態度で、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、社交的な舌の回りをしていても、左部が文献研究部に籍を置く『奇人変人』であることは覆しようがない事実なのである。これぞ、自他ともに認める、というやつだろうか。
柊はふう、と小さく息を吐いて、いまだ立ち止まったまま腑に落ちない表情を浮かべている相談者に近づいた。
「よろしくお願いします。俺もあの先輩とは知り合ってまだ間もないですが、意味のないことをやらせるようなひとではないと思いますので……」
先ほどの頼みごとは理にかなったものであるし、おかしなことは言っていないはずだ。
「ああ、いや、そこはまあいいんだけど」
おもむろに近づいてきて無表情で部長のフォローをする後輩に、沖田は戸惑った顔をして、首を控えめに横に振った。
「俺が家族に言ってないこととか、その理由とか、既に知ってるように言ってきたからさぁ、ちょっとびっくりして」
「……ああ、なるほど」
柊はそこで、沖田が微妙な反応だった訳に気がついた。確かに、先程までの会話で一度も沖田は文研以外には相談していないことを口にしていなかったと思い返す。事実、柊もこのやりとりをするまではその事を知らなかった。
「──まあ、あのサトリ先輩ですから、そういうこともあるのでは」
正直にいうと、柊には、左部がそういったことに気がついた理由はわからない。ただ単に憶測を口にしただけかも知れないし、提示された情報の中から推理したのかも知れないし、はたまた──これは彼の信条からしてやりそうにはないが──彼の祖先の力を使ったのかも知れない。しかしそのどれであったとしても、対外的にはこの言葉で片づけられそうな気がするのだ。
「あの奇人変人しかいないと言われる文研部員ならば、そういうこともありえるだろう」と。
柊もその部に所属しているため、奇人変人だと思われるのは遺憾ではあるが、「普通ではない」と既に周知されているのは実に便利だと思う。既に異端であるならば、その周りでいくら不可思議なことが起ころうとも、「文研だから」で説明をつけてしまえるのだ。己の家系と体質から言っても、この部に入ったのは良い選択だったと、我ながら思う。柊が奇妙な行動をとっても、いくらでも──とまでは言えないかも知れないが、誤魔化しが効く。
「あはは、まあ、そうだな。気にしてもしょうがないか」
沖田はからりと笑って、「また寄るよ」と、今度は引きとめられることなく去っていった。
「いつでもどうぞ」
柊はどこぞの店員のような科白を、コンクリートの階段を降りていくその後ろ姿に投げかけて、自分も文研の部室へと戻るため踵を返した。
今頃部長は座り心地の良い椅子に腰かけて、何事もなかったかのように悠々と本の頁を繰っているか、くふくふとさも愉快げに笑っているかのどちらかだろう。やり逃げ、というのはこういうことだろうか。言い逃げの方が正しいかも知れない。
もし今日この場に諒がいたならば、きっともっと収拾のつかないことになっていたのではなかろうか。
近しい位置に愉快犯がふたりもいるというのは、厄介なことだ。
柊は迷惑に思う気持ちだけでない感情を片隅に自覚しながら、静かな笑い上戸の愉快犯が待つ地学教室へ、ゆっくりと歩を進めた。
金曜の投稿はお休みします。




