壱
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──ぴちょん。ぱしゃっ。
水の跳ねる音がする。
──ああ……またか。
ぼんやりとする頭で、沖田ははじめからこれが夢であると認識していた。
理屈も根拠もないが、これは夢なのだと、はっきりとわかる。おそらく本能のようなもので。
目の前には、真っ暗な、一寸先も見えないような闇が広がっていた。しかし、伸ばした自分の指先を見てみると、何故だかはっきりと見える。はっきりと、というのは少し違うかも知れない。ぼんやりと輪郭がぼけるように光っているのだ。
自分の身体が発光しているという事態にも何故かさして驚かず、沖田はゆっくりとした動作であたりを見渡した。
光っている。
自分の身体とはまた違う何かが、沖田を下から照らしていた。
水だ。
柔らかな水に、沖田は膝まで浸かっていた。それなのに、全く冷たさも不快感もない。その感覚もまた、沖田がこれを夢だと感じる所以であった。
水面が揺れる度に、まるで蛍烏賊がいるかのように幻想的に光る。しかしその光は、本物のそれと違って青くはなく、ただただ真っ白だった。
──ぱしゃん。
背後でした水音に、沖田は緩慢な動きで振り向いた。
──蛙だ……。
沖田の身長よりも体高が高く、例えるならば自動車ほどの大きさの蛙が、そこに鎮座していた。沖田が知っている蛙の種類の中で最も近いのは、アマガエルだろうか。薄い黄緑色の身体に、つるりとした肌。その細身の足下には、普通に乗ったら沈んでしまうであろう蓮の葉がある。それもまた、巨大な蛙が乗れるほどに大きかった。
──ぱしゃん。ぱしゃっ。
巨大な蛙の周りで、一般的な大きさのアマガエルが4匹、水音を立てながら蓮の葉の上を跳ね回っている。
そんな奇妙な光景を見ても、沖田は不思議なほど動揺しなかった。
──ああ、これは、わるいものではない。
冷静に考えると不気味ではあるのだが、沖田はその蛙たちに全く恐怖を抱かなかった。むしろ、安心感、というべきか……。柔らかく暖かな心地に包まれていた。
「かえる、かえる」
じっと巨大な蛙を見上げていると、唐突に周囲の小さな蛙たちが口を開いた。
「かえる、かえる」
「とりもどせ」
「われらはかえる」
「とりにこい」
「おやまのほこらにとりにこい」
「おやまでわれらはひろわれた」
「ひろうかたからとりもどせ」
「それがかえるののぞみなり」
妙な節をつけて、歌うように蛙たちが跳ねながら喋る。高いとも低いとも取れぬ奇妙な4つの声が、真っ暗闇に反響する。
巨大な蛙は、ただじっと、その横長に伸びた山羊のような瞳孔で、沖田を見つめていた。
「かえる、かえる」
「とりかえせ」
「われらはかえる」
「とりにこい」
「おやまのほこらにとりにこい」
「おやまでわれらはひろわれた」
「ひろうかたからとりかえせ」
「それがわれらの」
──「望みなり」
地響きのような低く太く静かな声が心臓を打つと共に、沖田の意識は現実に引っ張りあげられた。ずるりという気持ちの悪い感覚。
目を開いた記憶もないままに、カーテンの柄をぼうっと眺め、不意に目に入ってきた朝日に顔を歪める。
先ほどまでの柔らかい光と違い、カーテンの隙間からこぼれる朝日は容赦なく沖田の網膜を焼いた。
上体を起こし、片手で顔を覆う。小さくため息を吐いた。
これと同じ夢を、近頃毎日のように見る。何度体験しても、最後の声と、目が覚める感覚には慣れない。
あの太い声を聞いたときの感覚を例えるならば、間近で太鼓が打たれたときのような。力強く叩かれる太鼓の振動は、身体の底に、心臓に響いて、共鳴させられる。沖田は昔から、あの感覚がどうも苦手だった。
顔を覆っていた手を胸に当てると、どくどくと普段よりいくぶんか速い調子で心臓が動いている。
──あー……。どうしよ。
今のところさして困ってはいないが、あれほど何度も何度も夢に登場されたら、嫌でも自分に何かしてほしいと伝えてきていると理解する。しかしあんな幼児のような語彙で歌われたところで、普通の人間であると自覚している沖田には、何をすればいいのか全くわからなかった。
かといって、自分の家族や友人に相談したところで、「えー、なに、あんた蛙好きだったの?」だの「おもしれー夢じゃん」だのとしか言われないだろう。超常的な現象を信じる人間は、沖田の周囲には生憎といなかった。
勿論沖田とて、そういったものを信じているわけではない。しかし、普段夢など滅多に見ないうえに、見たとしても高確率で忘れる自分が、これほどまでに夢という存在を意識しているのだ。例え本物の超常現象でなかったとしても、異常であることには変わりなかった。
「──……っ」
今日も今日とて学校がある。支度をするためにベッドから降りようとしたそのとき、沖田は唐突な緊迫感に息を詰めた。
──見られている。
何かがじっと、こちらを見ている。
監視するような強い視線ではないが、へばりつくようなぬるりとした視線。
ぞわりと首の後ろの毛が逆立つ。気持ちが悪い。
沖田はその視線がどこから来るのか、目を彷徨かせつつ出どころを探した。
窓だ。窓に、いる。
ついさっき降りようとしたベッドに膝立ちになって、脇にある出窓のカーテンに手を伸ばす。
気味の悪さは感じたが、何故かあまり恐怖は感じなかった。あの夢のように。
シャッ。
端を掴んだ沖田の指によって、呆気なく開かれたカーテン。強い光が部屋に射し込んで、沖田が目を瞑るまでの間。沖田の視界に、一瞬だけ何かが映り込んだ。
「…………」
明るさに慣れて、瞼を開く。窓の外をもう一度念入りに見ても、何もいない。
「……あぁ~……」
カーテンの端をつまんだまま、沖田は天を仰いでため息に近い声を漏らした。
見えたのは一瞬だけだったが、硝子の向こうにいたのは──
「……なんだっけ、たしか古典の先生が……」
別に信じてはいない。夢が現実に関わってくるなどあり得ない。
けれども、しかし、このまま毎夜蛙を見続けるなど苦行もいいとこだ。蛙は苦手ではないし、アマガエルならばどちらかと言えば可愛いとも思う。が、それとこれとは別である。どうせ夢で見るのならばぬめぬめした蛙なんかよりも、すべすべのお肌の女優さんだとか、そこまでの贅沢が許されないのであればせめて可愛めのクラスメイトであるとか、要するに目の保養になるようなものが良い。
「文研……」
学校で密かに噂になっている、ある部活動の略称をぽつりと口に出した。
まさか自分が、あの奇人変人が集まるという部活に関わることになるとは。こんな馬鹿みたいな内容を真面目に相談しなければいけないのは遺憾だが、蛙の夢がずっと続くのは避けたい。
名前を覚えていないが、文献研究部の顧問だという古典の先生に話せば、紹介してくれるだろう。
再度深いため息をついて、沖田はのろのろと登校の準備を始めた。




