弐
4階までいっきに階段をのぼると、流石に息がきれた。4階まででこれならば、1年の教室があるはずの5階までのぼるのはどれほどしんどいだろうか。少年が3月まで通っていた中学は、4階建てだったうえに生徒数が開校時から大幅に減ったせいで、普段は3階までしか使わなかった。そのせいで、少年は4、5階ぶん階段をのぼるということをあまりしたことがない。この高校も都会とは言えない場所にあるはずなのに、何故こんなにも立派な校舎なのだろうか。
慣れるのにしばらくかかりそうだなと考えながら、自分の向かうべき教室をきょろきょろと探す。
「あ、」
あった。
廊下の一番奥。突き当たりではないが、ほぼはしっこ。引き戸の上部についているプレートに、「多目的4」と表記されている。
突き当たりには壁があるだけで、教室等の部屋はないようだ。
集合場所は、体育館の入り口近くに掲示されていた、クラスと番号の発表用紙に、クラス毎に違う教室の名前が表記してあった。
幸い教室の扉は開きっぱなしのようで、扉の開閉の音で注目を集める心配はない。けれどもやっぱり、始めて来る場所、知らない人ばかりの空間に足を踏み入れるのは緊張する。少年の見た目には出ていなかったが。
デイパックのショルダーハーネスを片手でぐっと握り込み、扉の敷居を踏み越えた。
教室は通常の教室の2倍ほどの広さがあり、学校で使う普通の木製の机と椅子が41個ずつ、教室の前半分に並べてある。後ろ半分には、車輪がついている折り畳み式の椅子が、これも41個、同じように並べられていた。
ここは本当の教室ではなく臨時のものなのだろうが、中学と違って机が隣同士でくっついていないところに、「高校」を感じる。
これで隣の席の人に気を遣わなくてすむ。なんて良い所なんだ、高校って。
少年は軽い感動を覚えながら教室の真ん中あたりまで歩き、前方のスクリーンにプロジェクターで投影されている自分の席の位置を確認した。
自分がどのクラスの何番かは、叔母である薑子に写真を撮られる前に、掲示されていたものを見て確認している。少年の名前は、1年7組の39番の場所にあった。
39番。一番廊下側の列、前から3番目の席。
人のと机の間を縫って、そこまで進む。時々背中の荷物やら少年の太腿やらが机の角にぶつかった。
自分の大きさがわからないなんて言ったら、叔母に笑われてしまいそうだ。
教室のなかは、同じ中学出身の人たちで固まって話しているのか、けっこうざわざわとしている。けれどやはり知り合いがおらず、ひとりで席に座っている人も一定数はいるようで。
「おっ、やっほ~柊」
その『一定数』のなかのひとりが、こちらに気づいて片手を挙げた。男子にしては高めの、よく通る声だ。
耳とブレザーの襟にかからないよう短く切り揃えられた茶褐色の髪。前髪は僅かに眉にかかるくらいの長さだが、真ん中でふわりと分けられている。すっと一本の芯が通っているように、伸ばされた綺麗な姿勢。瞼で半分ほど隠されている少しつり気味の暗い茶色の瞳に、常にゆるく笑んでいる口元。どこか好戦的な雰囲気。
柊と呼ばれた少年にはそのどれもに覚えがあった。というか、春休みに入る前は、どちらかに予定がある日以外はほぼ毎日途中まで一緒に帰っていた。
彼に右手を挙げ返しながら近づく。
「おはよう。久しぶり……若松」
中学で3年間柊と同じクラスだったやつだ。
柊の記憶する限りでは、彼ほど呼び方に困る人間はいない。小学校の頃はずっと誰にでも苗字に敬称で通していたから、中学校で出会ったこの若松諒という男子をなんと呼べばいいのかわからなかった。気づくと周囲は皆仲の良い人間に対して名前で呼び合っていたため、人間関係に軋轢を生みたくなくて、最初のうちは慣れない名前呼びをしていたのだが。
諒との仲が深まるにつれ、「諒さん」「若松くん」「諒くん」と呼び名は変化していき、今の関係に落ち着いてからも「若」「若様」「若松」「諒之介」などと数々のヴァリエーションを増やし続けている。そして現在も、そういった変遷を経てきたためか、呼び名がいっこうに定まっていない。今更ではあるのだが、名前をただ「諒」と呼ぶのは、なんだか照れくさくなってしまうのだ。そういうところに、柊の対人経験の少なさが滲み出ていた。諒からの呼び名は、「柊」で首尾一貫しているのだが。
ちなみに諒は、いまだに柊が自分を名前のみで呼ばない理由に勘づいている(柊は知られていることを知らないが)。彼は柊のそういった不器用なところも好ましく思っているので、特に今まで強要はしてこなかった。その対応は、押しつけがましい人間が嫌いな柊へのものとしては、正解だったと言えるだろう。
「久しぶりだね~、とはいっても最後に会ってから2週間も経ってないけど」
おどけて笑う目の前の男子生徒をあだ名で呼べるほど親しくなったきっかけは……なんだったか。
何故か柊はあまり覚えていなかった。
最初諒に興味が全くなかったからか、それとも大した出会いではなかったからか。どちらかだとは思うが、取り敢えず柊が覚えているのは、はじめ彼は諒が苦手だったということだけだ。
諒自身は、別に性格が悪いとかいう訳ではない。まあときどき猟奇的な発言をするが、少なくとも悪人ではない。ただちょっと絡みがうざかったというか、乱暴だったというか。中学生にはありがちかもしれないが、肩を叩いたりだとかノリで頭を叩いたりだとか、その辺の力加減が下手くそでけっこう痛かったのだ。
柊は柊で大人しいとは言えない性格ではあったが、柊は当時──今でも──乱暴なやつと自己中心的なやつと短絡的なやつがあまり好きではなかったから、諒には良い印象を抱いていなかった。
──それが何故こんなに仲良くなったのか……。
世界三大不思議に入ると柊は思っている。ちなみにこの場合の世界三大不思議とは、柊の基準で柊が選抜したものである。
感性が近かったとか、思考回路が一緒だったとかだろうか。けれど柊は諒と違い、猟奇的な発言をするなどということはない。
例えば恨む相手がいたとして、柊の場合は相手のために使う労力が勿体無いという理由で、徹底的に相手を視界に入れない方向に行くが、諒の場合はひとつひとつ丁寧に爪を剥いでいくことから始まり、最終的には鍋攻めにするという、ひたすら相手に苦役を課す方向に振り切る。こうしてみると、全く逆のような気もする。謎だ。そもそもそんな話になるシチュエーションが謎である。どんな中学生だったのか。
「相変わらずなに考えてるかわかりにくい顔してるね~」
なに、と言われても、あなたの猟奇的な復讐方法の是非について考えていましたよ、とは言えない。
書類と筆記用具、その他諸々の詰まったデイパックを、黒板に貼ってある紙に書かれている自分の机に、どすと下ろす。それだけでも肩が随分と楽になった。
「お前も相変わらず、目にハイライトがない」
常に半目なせいか、諒はたいそう冷たい目をしている。口元はうっすら笑っているにも関わらず、目の奥が笑っていないのだ。まっことおそろしい。
以前柊がそれを言うと、「ええ~、ちゃんと笑ってるじゃん。ほら、ね? こんなに朗らかで天真爛漫な笑顔、他にないでしょ?」と、黒々しい薄笑いで返されたため、以来そこには触れないことにしている。もちろん目は笑っていなかった。
「それにしても、制服似合わないね」
「見慣れてないだけだろう」
「どうかな~。柊に明るい緑は、食い合わせが悪そうだけど」
食い合わせとは。食べ物じゃないんだが。
柊は己の格好を見下ろす。
この県立狩留堺高校の制服は、黒のジャケットは全員共通だが、それ以外は男女で違う。因みに、襟元に沿って2本の白い線が入っている黒のVネックケーブルセーターや、同じデザインのベストも男女共通だが、購入は任意だ。とはいっても、やはりセーターの方は大半の人が購入しているらしい。かくいう柊も今は着ていないが、叔母である薑子の家に先日セーターが届けられていた。
男女で異なっているのは、シャツとネクタイの色だ。男子は青竹色のストライプが入ったカッターシャツに青褐のネクタイ。女子の場合はストライプの色が杏色に、ネクタイは弁柄色になっている。
墨色のスラックスと車ひだスカートは性別関係なく選択できるようになってはいるものの、今見る限りでは男子は全員スラックスを、女子はクラス内に2名ほどスラックスの生徒がいるが、殆どがスカートを選択しているようだった。
「君には瑠璃とか緋が似合うよ」
「なにその正反対の組み合わせ。絶対てきとうじゃないか」
「あはは、そんなことないない」
ずいぶんな棒読みだ。わざとなのか、それとも本当にてきとうに言ったのか。
こいつは真面目な話と冗談と嘘を同じトーンで吐くからタチが悪い。
おろしたての制服が皺にならないよう気をつけながら、柊は椅子に腰を下ろした。




