壱
もう花弁が散り、赤みを帯びたちまちまとした葉が混ざり始めている桜の前。そこには長蛇の列ができていた。
陽気に花見でもしようという訳ではない。花見にしては時期が遅い。これはこれで風情を感じるものもいるのだろうが、少なくともここには、花見に来ている人間はひとりもいなかった。
列の先頭では、ひとりの少年が桜の下に立って、女性にスマホのレンズを向けられている。
「叔母、後ろがつかえているのでお早くお願い」
「わかってるわよ」
身長は「叔母」と呼ばれた女性よりも僅かに高く、165近くはあるだろうと思われる。しかしその筋肉のつききっていない身体に加え、まだ僅かに丸みを帯びた輪郭と細い首が、少年がまだ『少年』という枠組みから抜け出せていないことを示していた。
艶やかな濡羽色の髪は、後ろは頭の形に沿って、うなじにかからぬよう切り揃えられているが、前髪はその睫毛にかかるほど長い。加えて縁ありのウェリントンの眼鏡をかけているため、その瞳はよく見えなかった。
「ひぃ、ちょっとくらい笑いなさいよ」
そうはいっても、面白くもないのに笑えない。
少年はその薄い唇をひくりとひきつらせた。
愛想笑いは苦手だし、そもそも写真とか映像とかは苦手だ。過去の自分がどんなことをして、どんな表情をしたのかが記録されるというのがおそろしい。
機械は誤魔化しがきかない。自分がはたから見てどんな奇怪な行動をしていたかなんて見たくもない。ふとした拍子に、カイが違うものが写りこんでしまうかもしれないし。
そんなことがあったらそれはもはや軽い事故だと少年は思う。
スマホを構えて顔をしかめていた少年の叔母が、諦めたように息を吐いて腕を下ろした。
「ほら、見てみなさいよこの顔。ハレの日になんて縁起の悪い顔をしてんの」
後続の人たちの邪魔にならぬよう道の端に寄って、叔母は少年にスマホの画面を見せる。
叔母に近づくと、仄かに山椒の葉を叩いたときのような香りが少年の鼻をかすめた。
この人はいつもこの香りを身にまとっている。まさに叔母を表しているような、胸がすっとする匂いだ。
香水のようにわざとらしくなく、人工的で酔いそうになるものとは違うこの匂いを、少年はわりと気に入っていた。
画面の上に手でひさしを作って覗きこむと、そこには、数日前に届いたばかりの高校の制服に身を包み、友人に「鉄仮面」だの「無表情」だのと言わしめた顔をした少年と、紙花で飾り立てられた立札に見事な筆運びで書かれた「入学式」という文字が写っていた。それらの背景には、ぼやけた桜の幹と、数枚の花弁が写り込んでいる。
『春』を凝縮したような写真だと少年は思った。
「……そこまでひどい顔ではないと思いますが」
そもそも「縁起が悪い顔」ってなんだ。ただ笑っていないだけなのに。
つい少年がそう漏らすと、叔母はスマホを肩掛け鞄にしまいながら、
「ハレの日には笑わなきゃいけないのよ。笑ってるだけでも福は舞い込んでくるんだから」
と言ってニヤリと笑った。
あやしい笑いかただ。むしろ福に避けられるか、逆に悪鬼を引き連れてきそうな……。
少年はちょっとゾッとした。
上品なスーツを着てほどよく化粧をし、いつもより念入りに身を整えている叔母は、身内である少年から見ても美人だ。
この人には赤い口紅が驚くほどよく似合う。40代とはとてもじゃないが思えない。
そんな人が口角をつり上げると、背筋が寒くなるような感覚を覚える。
「まあ、ひぃはそれがデフォルトだから、しょうがないか。逆に満面の笑みを浮かべてるひぃなんて、恐ろしすぎるわな」
人が反論しないのを良いことに、好き勝手言ってくれる。
自分だって愉快なときは笑うし、必要に迫られた時にはちゃんと外用スマイルくらい作れる。ほら、今だって不機嫌そうな顔をしているはずだ。
少年は心中で叔母に反駁した。
叔母をじっと見つめてみる。
「……なによその顔は」
不審物を見るような目をされた。
「不機嫌を全面に出した顔」
「きっと高校でのあだ名は、『能面』か『鉄仮面』か『仏頂面』ね」
「それはもう中学で」
「呼ばれてたわね」
知ってるから言ったのよ。なんて、意地の悪そうな発言。
微妙にひらひらと降ってくる桜の花弁の軌跡を視線で辿った。思いの外強い木漏れ日に、少年が僅かに目をすがめる。大きく広がった枝の隙間から、朱がちらとみえた。
「いいからそろそろお行き。集合時間に遅れるよ」
しっしと聞こえてきそうな仕草で、叔母が手をひらひらとふる。
ブレザーの長めの袖を捲って、入学祝いにと叔母がくれた新品の腕時計で少年が時間を確認すると、確かに集合時間が迫っていた。とはいえあと30分程度は余裕があるのだが。
まあ遅れるよりは早い方が良いだろうし、集合場所である教室は4階にあるから、今から向かってちょうどいいくらいか。
先程まで長蛇の列があった立札付近を見ると、少年が叔母と話している間にずいぶんと消化したようで、あと10人程度まで減っていた。
きっと途中で間に合わないと判断して抜けた人もいるのだろう。でなければひとりひとりの撮影時間がたいそう短いことになってしまう。叔母との会話はせいぜい10分にも満たないものだったはずだ。
「それでは、行ってきますね」
「はいよ。式の様子はしっかり撮っておいてあげる」
叔母がまたしても意地の悪い笑みを浮かべ、スマホの入っている鞄をポンと叩いた。
あの顔は、撮ったものを「オトモダチ」に披露する気に違いない。撮られるのはまだしも、多数の人間に見られるというのは断固拒否したいところだ。
けれども、そう伝えたところで叔母はきっと聞き入れてくれないだろうから、少年は叔母のお茶会に話題を提供するのも子どもの務めと思って、自分を納得させている。
さあ脱靴場に向かおう、と叔母に背を向けたところで、思い出す。少年が顔だけで振り返ると、かの人が片眉をあげて「なに?」という顔をしていた。
「俺の表情筋さんは、ちゃんと仕事をしています」
それだけ伝えて歩き出す。と同時に、背後で吹き出したような気配がした。




