登校再開前日
学院の休校が解かれる前日、クリストファーとジルベルトはニコルの屋敷を訪れていた。学院長の要請により、明日からニコルの休学も解かれるからだ。
バダックを無事『協力者』とすることに成功したが、学院長という狸の駆除は暫し時を待つことになっている。
外務大臣ダーガ侯爵からの「お願い」を叶えるには、アイオライト王国第一王女が留学を取り止めることになるような「大事件」を今、起こす訳にはいかない。
ペットのロペス公爵が逮捕されても、いつものように自分だけは無事なのだと油断させるためにも、ニコルには学院長の要求を飲ませることが、王命にて決定した。
ジルベルトは決定した王命を伝える使者として、クリストファーは護衛強化の打ち合わせということで、修羅場は一段落したものの未だ多忙な仕事の時間を割いて、三人で集まることが出来ている。
この機会をニコルとの情報共有に使おうと、事前にジルベルトとクリストファーは意思確認を済ませていた。
「え、白河さんと御堂さんが転生してたの⁉」
こういう情報とか。
「え? 留学生として来てる? 残り二人は? まだなんだ?」
こういう情報とか。
「は? やっぱり白河さん、殺されてたんだ」
こういう情報とか。
「お母さんの死因を調べていた・・・?」
この辺りの話を伝える時間が必要だと考えたのだ。
「まだ、それ以上の話は確定情報ではないからと聞けていない。それに別の世界の過去のことだ」
「でも・・・っ!」
淡々と話すジルベルトに、ニコルは怒りと悔しさを滲ませる。
前世の母親の死因を「母の犬達」が調べていた。その事実だけで、ニコルも前世で母親を謀殺したのは父親だと結論を出したのだ。
ほとんど交流が無かったというのに、前世の父親の信用度は初めから最低だ。
尤も、普段は母親に何の関心も無い父親が、入院する病院にだけは強固に拘って自ら手続きを率先して独占していたのだから、当時から「何かある」と怪しさは感じていたので、「目的は妻を殺すことでした」という結論は、ただ腑に落ちただけだった。
「あのクソ親父」
「まだ、可能性の段階だ。それに、黒幕は他に大物が存在しただろう」
少女とは思えない低い声で吐き捨てたニコルを宥めるジルベルトの口調は、変わらず淡々としている。前世の夫に対しては、本当に動かせる感情が見当たらないのだ。
おそらく、あちら側も同じだったから、妻を殺すことに何の感情も動かず忌避感も無かったのだと想像する。
世間一般で「まとも」と称される感情を欠けさせた者同士で婚姻契約を結ぶならば、もう少し「契約内容」に安全対策を盛り込むべきだったな、という、とても「まとも」とは言えないだろう反省が思い浮かぶくらい、ジルベルトの側も夫への情が皆無なのだから、相手側に期待するのは勝手と言える。
いわゆる「まとも」ではない自覚を持っていた前世のジルベルトは、「普通」を逸脱し過ぎないよう心がけて生きていた。
契約結婚に至った前世の夫も「普通」であることを求めて生きる同類だと油断していたが、夫の方は「表向きの普通」を契約結婚の妻で維持出来れば、実際の生き方は「普通」を逸脱することに否やは無いタイプだったということだ。
前世のジルベルトは、その「油断」により、生命を利用された。
前世の夫にとっては、妻の生命など「自分が所有する持ち物の一つ」でしかなかったのだろう。それを利用して消費しただけだ。
ジルベルトにも、その感覚は理解出来てしまう。
前世では目的のためであっても、「普通」ではない「殺人」には忌避感があったジルベルトだが、夫の生命など自分のテリトリー内に置く無機物と同様の感覚だったのだから、お互い様なのだ。
ただ、「普通」でいようと、生きた人間への「殺し」は選択しなかった自分と、「表向きが普通」であれば、人間の生命を奪う選択肢を常に持っていた相手との差が出ただけだ。
許す許さないは別として、事実を聞けば前世の自分の死は、自分の油断が招いた結果だという認識は大きい。
その油断のために、「犬達」は想定外の大きな力によって殺されることになり、何よりも大切な子供達を転生後にまで悲しませることになった。ジルベルトが一番許せない点は、其処に在る。
前世の夫のことは、ハッキリ言って、もうどうでもいい。興味が無さ過ぎて、既に顔もよく思い出せなかった。
かと言って、自分の感覚を前世の子供達に強要することは、したくない。
あんなものに心を煩わされる必要は無いと言いたくとも、ニコルとクリストファーの情動を抑制する権利など、ジルベルトにも他の誰にも無いと考えている。
だから、宥めるにも淡々と事実を述べるに留めているのだ。
「んで、まぁ、『御堂さん』なネイサン・フォルズと、他の目や耳の無い場所で会って話が聞きたいから、お前に協力してもらいてぇんだよな」
行儀悪くテーブルに肘を付いて姿勢を崩しながら、クリストファーが会話を引き継ぐ。
「了解。この屋敷に『ネイサン・フォルズ』だけを招く形に自然に持って行けばいいのね?」
相変わらず話が早くて助かるニコルだが、少し不思議そうな顔をしている。
今回、ニコルを学院長を油断させる囮のように使うことは、王命なので話をそのまま持って来ているが、基本的にジルベルトとクリストファーは、暗躍めいたことをする時にはニコルを外して動いていた。
王家の庇護下にあると言っても、ニコルの身分は『子爵令嬢』であり、屋敷の外では何をするにもゾロゾロと護衛を付けなければ何処へも行く許可が出ない。
ニコルの護衛には大きな権限が王家から与えられているとはいえ、外で何らかの動きを見せれば身分的に舐められて絡まれる可能性は高く、ニコルを危険に曝すことを厭う過保護なジルベルト達は、今まで出来得る限り、そういう場面を避けていたのだ。
「ああ、頼む。これからは、国の機密に関わらないことで、お前を仲間外れにすることは無ぇよ」
「そっか。分かった」
笑顔で力強く頷いたニコルが、ジルベルトとクリストファーが方針を変えた本当の理由まで、言わずとも「分かった」ことを、二人は察する。
そして、二人を困らせないために、それを「受け入れた」ことも。
ニコル本人へ伝える必要は無いと指示されているが、第一王子エリオットの失脚から秘密裏に王宮サイドで話し合われていた「ニコル・ミレットの将来」が決定した。
王家は、『子爵令嬢』のニコルの保護を目的として、コナー公爵家次男であるクリストファーとの婚約を王命で結ばせたが、ニコルを王家に取り込むことを完全に諦めた訳ではなかった。
ニコルより年下であるクリストファーが学院を卒業するまでに、情勢の変化などでミレット家を批判や問題無く伯爵家に格上げすることが出来れば、クリストファーとの婚約を解消させて、アンドレアの正妃とする案があったのだ。
しかし、エリオットの失脚後、アンドレアは内乱の誘発や同盟維持に影を落とすことを避けるため、生涯独身を宣誓してしまった。
ニコルには婚姻後も今まで通り、国を富ませる商品開発や商売を続けて欲しいのだから、後宮にて夫以外の異性と隔離する側妃には出来ない。
王都に帰還させた王弟のレアンドロも結婚歴の無い独身ではあるが、レアンドロはニコルの父親よりも年上だ。
「ちょうど相思相愛だったから」という理由で、他の数多のニコルへの求婚者を黙らせて結ばせた若いクリストファーとの婚約を解消させて、父親より年上の王弟の妃とすれば、ニコルを「王家の横暴に翻弄される悲劇の少女」に祭り上げて、「救出」と称して拉致する大義名分が出来てしまう。
何より、レアンドロが娶った場合は「白い結婚」を疑われる可能性を指摘されていた。
ニコルを婚姻により王家に取り込んでも、「白い結婚」であればチャンスは消えていないと目され、狙い続ける国や組織は減らない。
レアンドロの体格は、「本当の意味で夫婦」になったとしたら、平均的貴族令嬢の体格であるニコルが健康を維持しているのは「おかしい」と思われるくらい、規格外に過ぎる大きさだ。
かつてレアンドロが父と兄に婚約や婚姻を勧められた時に、自身を「羆」と称して「令嬢の気持ちが分かりますか」と、遠回しに「初夜に起こり得る惨劇」を示唆したのは、王族に嫁ぐ絶対条件を満たす純潔の一般的な貴族令嬢がレアンドロを受け入れた場合、良くて下半身不随で寝たきり、最悪の場合は初夜で死ぬことが予想されたからだ。
ニコルを損なうつもりは無い王家は、レアンドロとニコルを「本当の夫婦」にすることは出来ない。
かと言って「白い結婚」を疑われるようでは意味が無い。
そして、アンドレアは宣誓を覆す意思が全く無い。
諦め切れない王宮サイドで話し合いは長引いたが、アンドレアがクリストファーから『使う』ことを許されたことで、法的拘束力で「ニコル・ミレットの権利を有する」クリストファーが王家に反目することは無いという見方が強まった。
アンドレアがクリストファーから見限られないことが条件だが、ニコルは現状のまま、クリストファーの婚約者、いずれは妻として、「王家の庇護下」かつ「コナー公爵家の保護下」で守り囲うことになる。
そこに本人の意思など介在しないまま、話し合いは進められ、決定した。
ジルベルトもクリストファーも、それに対して思う処が無いではないが、この世界で「王国」に生きる「貴族」であれば、何も疑問を持ってはならない事柄だ。
もしも決定が「レアンドロと本当の夫婦にする」だったら、王家の手の届かない所へ逃がすことも考えていたが、相手がアンドレアであれば、ニコルが死ぬほど嫌がらない限りは、ジルベルトもクリストファーも命令に従っていただろう。
それはアンドレアへの信頼であり、「この世界の貴族令嬢」の自覚を持つようになったニコルへの信頼でもある。この世界の貴族令嬢にとって、政略結婚は常識だ。
常識でも嫌だと足掻いていた子供の頃とは、引き籠もりを余儀なくされていても、「今生きている世界」に馴染めば、考え方も変わってくる。
今のニコルには、余程理不尽な相手との縁組でなければ、納得ずくで政略結婚に従う意思があった。
条件付きではあるが、ニコルはクリストファーとの婚約を維持し、クリストファーの学院卒業を以て、そのまま婚姻へ状態を進めることが決定した。
それにより、ニコルは今後の人生を軟禁状態で送ることも決められた。
王家に取り込んだ場合、王族は外交も社交も義務となるので、「外に出る」機会は多くなる。王族ともなれば、大っぴらに軍を動かして護衛することへの批判も抑えられる。
それでも、「白い結婚」を疑われる状態では、他国の王族と「既成事実」を作られる危険性を考えれば外交に出すことは出来ないほど、ニコルの価値は高く、各国がその身を狙っている。
ニコルをクリストファーの妻とした場合は、いくらコナー家の私兵が優秀でも、外出の際に軍隊で護衛団を編成するような大っぴらで目立つ守り方は出来ない。「影から暗殺者達が見守る外出」の形になる。
コナー家の正体は、公に知られてはならない。
各国家の中枢や国内の公爵家当主あたりは、情報を掴んだり事実を知らされたりしていても、口外しないのは暗黙のルールだ。口外した口は封じられる。
コナー公爵家の次男に嫁いだニコルが外出の度に、近寄る慮外者が不審な死を遂げていては、早晩事実が広まってしまうだろう。
それは、避けなければならない。
現在、ニコルはクリストファーと婚約しているが、未だ「婚約」であり、未婚の令嬢だ。
そのため、王家がニコルを取り込む可能性を、国内外の王侯貴族や豪商達も否定しきれていない。
今回、クリソプレーズ王国の王宮サイドでは、ニコルを王族に迎えない決定が成されたが、クリソプレーズ王国に於いて王族との婚姻資格をハッキリ失う「人妻」になるまでは、外部の目は可能性の完全否定という判断はしないだろう。
未婚の内だからこそ拐かそうとする「敵」も少なくないが、むしろ厄介なのは、「王家に取り込むつもりの令嬢」への手出しには慎重になっている、考える頭を持った「敵」だ。
ニコルとクリストファーの婚姻が成立し、ニコルが人妻となって、クリソプレーズ王国の王族との婚姻の目が完全に消えれば、それまで慎重に様子伺いをしていた者共が一斉に手を出し始めることが予想される。
それらを外出の度に、影に潜んだコナー家の私兵達が排除する事態は、国家から許容されない。
貴族家当主の妻でもない、「公爵家次男」のクリストファーの妻となれば、外交どころか社交すら義務ではなくなる。
つまりニコルは、クリストファーとの婚姻後は、屋敷から外に出る必要が、全く無くなるのだ。
必要が無ければ、狙われる身で外に出る理由も持てなくなる。
クリストファーと婚姻後のニコルは、国や王都から出ることが許されないだけではなく、強固に護られた屋敷から出る理由も失う。
その頃は学院も卒業済みなのだから、外の空気が吸えるのは、高い塀と物騒な魔法防壁に囲まれた屋敷の庭のみになるだろう。見ることが許される景色も、その囲いの中からのものだけだ。
それでも側妃として後宮に入れるのとは異なり、性別に関わらず助手や使用人を使って商品の研究や開発が可能で、背景が精査され厳格なチェックを通過した者だけだが、ニコルが必要と判断した人物との面会は、他人でも異性でも可能なのだから、金の卵を産ませながら飼い殺すには最適な環境だ。
制約の多い現状は幼少期から暴走した本人の自業自得ではあるが、様々なものを自分の目や耳で見聞きして自分の身体で体験したい、好奇心旺盛で活動的な性格だった前世のニコルを思えば、まるで罰を受けさせているような心持ちになる。
だから、「守りたいから」という保護者のエゴで、ニコルが知る権利を持つ情報まで遮断することを、ジルベルトとクリストファーは、もう止めた。
知った者の口を塞がなければならないような機密は勿論話さないが、前世に関わる話ならば隠さず共有することにした。『ナニか』への言及はせず、妖精以外の何らかの力による転生者が存在する事実も伝え、口止めもしている。
エリカの中身が転生者だったことは、自白させた手段が機密に類するので伝えられないが。
今のところ、クリストファーとの婚姻が成立したとしても、ニコルとクリストファーの血を継いだ子を成せという王命は出されていない。
元々、次男のクリストファーには、必ず子を持たなければならないという枷は無かった。ニコルにも、父親が迎えた後妻が産んだ異母弟が居るので、ミレット家の後継者も間に合っている。
もしもエリオットが失脚しないままミレット家を伯爵家に格上げ出来る情勢となり、ニコルがアンドレアの正妃となっていれば、王家との繋がりを強固にするために、王子との間で子を成すことを求められただろう。
だが、現段階でニコルに最も求められているのは、今と同じように国益を生み出すことであり、自分の子を産むことではない。
肉体的には他人に転生しても、兄妹という意識の強い二人の間に子を設けろという王命が出されれば、当人達だけではなくジルベルトにとっても拒否感は大きい。
そういう王命を出すメリットは現在、見当たらないものの、現王ジュリアンは腹の底が窺えない為政者だ。
こちらにとって受け入れ難い王命を下したとて、腹心の側近でもないジルベルトやクリストファーには、真意など説明しないだろう。ジルベルトやクリストファーの方も、前世で肉親だったという事情も同性愛者だという事実も申告する気は無い。
今後は、クリストファーとの婚姻後に、ニコルが「夫との子供」を望まれた場合の対策も考えておかなければならないな、とジルベルトは思案する。
アンドレアには忠誠を誓い、アンドレアが護ろうとする国に損害を与えたいとは思っていないが、ジルベルトは国家や現王、王宮の要望を丸呑みにして唯々諾々と従うつもりは無い。
クリストファーは、王族の中でアンドレアだけに『使う』ことを許し、国を護る意志はあれど王家に忠誠は誓っていない。国王に忠誠を誓う「コナー家の当主」と、「コナー家の真の支配者」であるクリストファーは立場も権限も違う。
クリストファーが現王ジュリアンを排除する気になれば、現王に忠誠を誓う父親ごと暗殺することも躊躇しない。
忠誠を誓った主君が在る当主だけを例外として、コナー家の総力は最終的には「真の支配者」であるクリストファーの命令に従うのだ。たとえ、王と当主をクリストファーが殺しても、配下達は、クリストファーの判断を「国のため」と信じる。それが、コナー家の存在意義だからだ。
本来、クリストファーは「コナー家のクリストファー」としての立場で力を奮い、私欲ではその力を使わない。
例外は、ジルベルトとニコルが自衛困難な状況に追いやられた場合だ。
もしもジュリアンが、クリストファーとニコルに子を成せと王命を発したら、クリストファーはおそらく、国を護るためではなく、私情で国王と父親を殺す。
コナー家の支配者として強い矜持を持つクリストファーに、私情で国王殺しをさせる訳にはいかないと、ジルベルトは思っている。
「御堂さん、今でも杏仁豆腐好きかな?」
色々と察しているだろうに、無邪気に振る舞うニコルを見ていると、やはり汚いモノとは関わらせずに守りたいと思ってしまう。
前世で子供達が独り立ちする前に死別したことを、自覚する以上に引きずっているようだと自戒して、ジルベルトは苦笑しながら「多分」と頷いた。